2008年8月25日

ロデオ到来




Altusの町に、今度はロデオがやってきました。だいぶ前にダニーから、「8月の終わりにロデオが来るらしいよ」と聞いてはいたのですが、ロデオと言われて私が想像したものは、たまにコメディアンとかが乗っている、上下に動く機械仕掛けの牛のお尻みたいなものでした。しかし、ここは西部劇本場のオクラホマ。どうやら特設会場が町外れに設けられ、たくさんのロングホーンや馬、そしてカウボーイたちが来るらしいのでした。昨日は軍の感謝デーで、朝は基地内をロングホーンの牛さんたちと馬に乗ったカウボーイたちが練り歩き、夜には始まりました、ロデオ。今回もダニーが取材だったので、なるべくカメラワークがよく、他のお客様に邪魔にならない位置でのんびりと見ておりました。流石に本場は違いますね、ものすごい数のカウボーイ・カウガール達が登場。彼ら、リアルに職業カウボーイです。暴れ馬のお尻に乗り続けるロデオや、馬から飛び降りて小さいロングホーンを組み伏せる競争など迫力満点でした。将来立派なカウボーイズ&ガールズになるだろうと思われる、5歳くらいの少年少女も颯爽と馬を乗りこなしていましたよ。すごいなぁ。しかしやはりここはクリスチャンなバイブル・ベルト。ロデオも始まる前に、司会者が神様に参加者たちの安全とイベントの成功をお祈りしておりました。

馬にのる、というとやはり颯爽と駆け回る自由さ、みたいなものを想像します。私はあまり動物達とお友達になるタイプではないので、当然乗馬などできないのですが。人間って本当に「自由」というものを求めますよね。でも、本当の「自由=Freedom」って何なんでしょう?最近は「自由=Freedom=Rebellion=反抗」みたいな世の中になっていて、とても嫌ですね。こういうのは、ファッションや音楽に顕著に現れていますが、例えば女性のミニスカートの登場とかって、60年代に遡りますがロンドンのフェミニストのゲイのファッションデザイナーの女の人が、「これからは女性も昼間からセックスする時代」という題目の元につくったものらしいです。私はこれを聞いて、なんか下品で嫌だなあ、それ、とすごく思ったんですが。娼婦じゃないんだから。けれど、彼女にいわせれば、これは女性解放、みたいな。でもこういう動きが、今何を招いているかというと、アメリカのティーン14−19歳の女の子の4人に1人はSTDを持っているという現実。日本も他人事じゃないと思いますよ。このあいだ、インターネットでニュースを読んでいて、いまどきは小学生用の女の子の漫画がエロ漫画化しているという記事を読んで、かなり衝撃をうけましたね。私はドラえもんとかアサリちゃん、ときめきトゥナイト、ねこねこファンタジーなどその他様々な漫画を読んで育ちましたが、青年誌以上に異常な内容のエロ漫画が小学生少女用漫画雑誌に登場することは当時ありませんでしたよ(涙)。そのニュースに対する漫画作者のコメントに、「想像の世界なんだからいいじゃないですか」みたいなことが書いてあって、人間の性の汚い世界を知っている大人が読むなら「想像の世界」ですむのかもしれないけれど、まだ何もしらない純真な小学生が読んだら、それは「想像の世界」ではなく、彼らの「現実」になっていくことが分からないのか?と吐き気がするくらい嫌な気分になりましたね。作者本人よりも、その作品を雑誌に載せている編集者が考え直すべきだと思いますが。ロンドンにいた時も、どう見ても14歳位の子が妊娠してたり、もちろん結婚なんかしていないわけで。これって「自由」っていうんじゃなく、「自己破壊」ということに気がつかないのかな?と思います。音楽をやりながら、麻薬とかお酒の中毒になっている人たちもそうですよね。「自由=逃避」が「自己破壊」であることに喜びを感じている、というか。そういうのをいろいろロンドンで目の当たりにしてきたので、本当に考えちゃいます。

さて、では本当の自由に関する、ヒントはどこにあるのでしょうか?「自由」を歌ったよいHymnがあるので、ご紹介。メロディが見つからなかったのですが、歌詞が深いので一緒に考えてみましょう。

I’m Free
W.J.G. and Gloria Gaither & William J.Gaither

So long I had searched for life’s meaning
Enslaved by the world and my greed
Then the door of my prison was opened by love
For the ransom was paid, I was freed

(Repeat)
I’m free from the fear of tomorrow
I’m free from the guilt of the past
For I’ve treaded my shackles for a glorious song
I’m free! Praise the Lord! Free at last!

I’m free from the guilt that I carried
From the dull empty life I’m set free
For when I met Jesus, He made me complete
He forgot the foolish man I used to be

(Repeat)

(意訳)
長い間私は人生の意味について考えてきた
この世界と自分の欲望の奴隷になって
ところが私の檻の扉が愛によって開かれた
代償が払われて、私は自由の身になった

(繰り返し)
私は明日に対する恐怖から自由になった
過去の罪から自由になった
勝利の歌のために、私を締めつけていた枷を踏みつけて
私は自由になった!主を賛美しよう!とうとう自由になった!

ずっと背負ってきた罪責感から自由になった
退屈で空っぽの毎日から解放された
イエス様に出会った時、彼は私を完全にしてくださった
彼は以前の愚かな私を忘れ去ってくださった

この曲は、罪から、世界から解放された自由、神様の救済による自由を歌っています。神様を知らずに世の中を生きていると、人間はその欲望や、しがらみ、人間関係、仕事、財産、恐怖、空虚感、忙しさ、そういったものにがんじがらめになっています。つまり、自分で作り上げた檻の中に入って出られなくなっている状態です。1番目の歌詞の後半にある「愛」とは神様、イエス様の愛で、「代償が払われて」というのは彼の十字架の上で支払った、私たちの罪に対する代償です。

ヨハネ3:16-17 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life. For God sent not his Son into the world to condemn the world; but that the world through him might be saved.

では、イエス様の救いは、なぜ私たちを自由にしてくれるのでしょうか?自由とは何を指すのでしょうか。

ヨハネ8:31-32 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
Then said Jesus to those Jews which believed on him, If ye continue in my word, then are ye my disciples indeed; And ye shall know the truth, and the truth shall make you free.

ヨハネ8:34-36 「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」
Verily, verily, I say unto you, Whosoever committeth sin is the servant of sin. And the servant abideth not in the house for ever, but the Son abideth ever. If the Son therefore shall make you free, ye shall be free indeed.

ここでいう自由とは、自己に内在する罪からの解放です。これは、自分が罪により創り出した檻により、自ら罪の奴隷状態になっていたものを、「子」つまりイエス様がその罪を取り除くことによって、檻の扉を開けて私たちを解放してくれる、ということです。「罪の奴隷」とは、簡単な例でいえば、タバコを吸い始めたら、どんどん量も増えて、タバコを自由意志で吸っていたものが、いつのまにかなしではいられないようになったり。同じく、なしではいられない麻薬の禁断症状とか、体を自分でコントロールできなくなっている状態ですね。仕事中毒とか、不倫とか、援助交際とかも然り。

ガラテヤ信徒への手紙5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
Stand fast therefore in the liberty wherewith Christ hath made us free, and be not entangled again with the yoke of bondage.

さて、イエス様を信じて救われたあと、その罪からの自由の中でどのように生きるべきでしょうか。下記にでてくる「肉=Flesh」とは人間の「carnal=肉欲的、現世的」な性質を指し、「霊=Spirit」とは神様の与えて下さる聖霊の導きに従う生き方を指します。

ローマ 8:1-4 従って、今や、イエス・キリストに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
There is therefore now no condemnation to them which are in Christ Jesus, who walk not after the flesh, but after the Spirit. For the law of the Spirit of life in Christ Jesus hath made me free from the law of sin and death. For what the law could not do, in that it was weak through the flesh, God sending his own Son in the likeness of sinful flesh, and for sin, condemned sin in the flesh: That the righteousness of the law might be fulfilled in us, who walk not after the flesh, but after the Spirit.

「律法」とはモーセの十戒を指しますが、人間はこの現世に肉体を持って生きている限り、それらを全て守ることは不可能なので、イエス様を信じ、霊によって歩むようになると、その律法の要求を肉でではなく、霊によって満たすことができる、ということです。

ローマ 8:5-7 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。

For they that are after the flesh do mind the things of the flesh; but they that are after the Spirit the things of the Spirit. For to be carnally minded is death; but to be spiritually minded is life and peace. Because the carnal mind is enmity agains God: for it is not subject to the law of God, neither indeed can be.
 
ガラテヤ信徒への手紙5:16-17 霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望む所は霊に反し、霊の望むところは肉に反するからです。肉と霊が対立しあっているので、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
This I say then, Walk in the Spirit, and ye shall not fulfill the lust of the flesh. For the flesh lusteth against the Spirit, and the Spirit against the flesh: and these are contrary the one to the other: so that ye cannot do the things that ye would.


5:18−21 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もっていいますが、このようなことを行うものは、神の国を受け継ぐことはできません。
But if ye be led of the Spirit, ye are not under the law. Now the works of the flesh are manifest, which are these; Adultery, fornication, uncleanness, lasciviousness, idolatry, witchcraft, hatred, variance, emulations, wrath, strife, seditions, heresies, envyings, murders, drunkenness, revellings, and such like: of the which I tell you before, as I have also told you; in time past, that they which do such things shall not inherit the kingdom of God.

5:22-25 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, longsuffering, gentleness, goodness, faith, meekness, temperance: against such there is no law. And they that are Christ’s have crucified the flesh with the affections and lusts. If we live in the Spirit, let us also walk in the Spirit.

私たちの祖父母の時代には当たり前だったような「モラル」が、メディアやMTVを通してどんどん破壊されていっている現代で、自分の子供が育つころには「世の中の常識」はますますひどくなっているんだろうと思うと心が痛みます。つくづく、自分の子供たちには、「世の中のインモラルな常識」ではなく、「神様のモラルある常識」を学ばせて育てたいと思います。