2008年5月13日

母の日

日曜日は母の日でしたね。

まだ産まれてませんが、初、母の日のカーネーションとカードをもらいました。
9月に長男が産まれる予定なので、今から旦那様と両家家族一同とうきうきしています。

今月末にオクラホマに引っ越します。
そういうわけで、更新が滞っていてすみません。

オクラホマに落ち着いてから、また始めますので、たまに覗いてみてくださいね。

皆さんいろんな事で忙しいと思いますが、心が焦る時や落ち着かない時も、神様はちゃんと見ていてくれていることを忘れないでくださいね。救われている皆さんとは、下の聖句をシェアしたいと思います。まだイエス様に救いを求めていない人は、是非心からSOSをだしてみてください!信じられないようなピンチから貴方を救いだしてくれますよ!

コロサイ信徒への手紙 3章

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前はこのようなことのなかにいたときには、それにしたがって歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いとともに脱ぎ捨て、造り主の姿にならう新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼を受けたものと受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい。主があなたがたを赦して下さったように、あなたがたも同じようにしなさい。愛は、すべてを完成させる絆です。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭しあい、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい


2008年4月3日


2008年4月2日

結婚観

日曜日に、兄が結婚しました!福生から中野サンプラザまで駆けつけたのですが、式には間に合わず、写真撮影に滑りこみセーフでした。しかし兄夫婦がなんとも幸せそうにしているので、とてもよかったです。ダニーは短いスピーチを頼まれていたので、折角教会式での結婚式だったということで、ユニバーサルな神様の愛について話してました。

ダニーと私がバージニアで結婚したときは、ダニーの実家のバプテスト教会で、とても正式な結婚式をしたのですが、その前に牧師のジェリー・ギブソンさんが結婚について聖書からアドバイスをくださるカウンセリングというのがありました。それは、本当に幸せへの鍵というもので、私たちも勉強になったので、ご紹介していきたいと思います。本当に、すべての夫婦がこれにしたがって歩んでいったら、喧嘩も離婚もなくてすむのに、と思います。ちょうど今、横田バプテスト教会でやっているサンデースクールの内容もかぶっているので、興味のあるかたは是非いらしてください!毎週日曜日、朝10時からです。


1.結婚の始まり

創世記 2:18-24 「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形作り、人のところへ持ってきて、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった。ひとはあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、2人は一体となる。」


神様は、地球をつくられたときに、自分の形に似せて、アダム、最初の男をつくりました。そしてあらゆる動物に名前を付けさせ、彼らを統治するようにいいます。しかし、どんなに多くの動物がいても、アダムは自分の助けとなる者を見つけることができませんでした。そこで神様は、アダムがかわいそうだと思い、アダムの足りない部分を補うべくその伴侶、女をつくりました。


女は男のためにつくられ、男は女のためにありました。男にないものは女に備わっており、2人は一緒になってはじめて、完成するものとなったのです。

ですから、夫婦間にある愛情というものは、食べたり、眠ったり、働いたり、遊んだりするのと同じように、当たり前にそこにあり、また、常に自然に存在するものでなければいけません。
さて、クリスチャンが学ぶべき3つの結婚における基本事項があります。


1.Partnership :共にあること、仲間として一緒にいろいろなことをすること

ペトロの手紙1 3:1「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」

3:7「夫たちよ、妻を自分よりも弱い者だとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。」

2.Pleasure: 喜び、楽しみを共有すること

ヘブライ人への手紙 13:4 「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。」

コリント信徒への手紙7:2-5 「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻をもち、また女はめいめい自分の夫をもちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利をもたず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体をいのままにする権利をもたず、妻がそれをもっているのです。互いに相手を拒んではいけません。」

3.Parenthood: 子供を産み、育て、教育すること。

詩編 127:3 「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。」

詩編 128 「いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ。あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか。いかに恵まれていることか。妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。」

では、続きはまた次回。


2008年3月14日

栄光の都市

昨日は唯一、夜教会でのお仕事がない日だったので、旦那様と近所のショッピングモールでのんびりしてきました。旦那様が手帳とペンを買ってくれました。ペンはcrossのとっても可愛いもので、これから大事に使おうと思います♡

さてさて、今日は天国の様子の続きを聖書から見てみます。街並みの様子がくわしく書かれているので、読んでみてください。


ヨハネの黙示録 21:10-11 この天使が、"霊"に満たされたわたしを大きな高い山に連れていき、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下ってくるのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。


ヨハネの黙示録は、ヨハネがイエス様から送られてきた天使による御言葉を書き留めたものです。この天国の描写は、大昔からクリスチャンたちの心を勇気づけてきたことでしょう。そこは、イエス様による救いを見つけて、この世の闇から救い出していただいた者達だけが辿りつける、希望の都なんですね。


ヨハネの黙示録 21:18-21 都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。


この描写は、じつはいろんな昔話とか、おとぎ話とかにも出てくるんですね。どの国でも、それだけ聖書はいろんな話の根底にあるものだったんですね。


21:22-27 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と子羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も必要でない。神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都にくる。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者は誰一人、決して都に入れない。子羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。

「新しいエルサレム」と描写される天国には、昼も夜もありません。そこは、常に神様の栄光と輝きに満ちた、明るい美しい場所なんです。そこには神殿も必要ありません。なぜなら、神様ご自身が、そこにいらっしゃるからです!子羊とは、イエス様のことです。子羊が都の明かりである、というのは、私たちが救いの道しるべとして求める光、それがイエス様であることを指しています。子羊の命の書とは、イエス様による救済を信じ、イエス様と聖霊を自分の心に受け入れた人たち、つまり救われた人たちの名が記された書です。もしもまだ、あなたの名がそこに記されているかどうかわからない、という方がいたら、是非今日イエス様を心に受け入れてそれを確かなものにしてください。救いは、教会に結ばれることでも、献金を続けることでもありません。ましてや、変な教団に入団したり、やけにボランティア活動に精を出すことでもありません。あなたと、神様の関係をもう一度正しくする、それだけです。いままで結ばれていて逃れられなかったいろいろな欲望や罪を、イエス様の力が洗い流してくれるのを、体験してください。

22:1-5 天使はまた、神と子羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものはなにひとつない。神と子羊の玉座に都があって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともしびの光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

22:14-15 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。


イエス様は、いつ地上に戻ってきて、この世界を一掃するか分かりません。今日かもしれませんし、100年後かもしれません。けれど、救いはいつでもあなたが受け入れた瞬間におきるものです。イエス様は、いつでもあなたの心の扉をノックしていますよ!






2008年3月12日

雲の上?

先日チューリップを買いました。綺麗に咲くけど、あまり長持ちしないですね。でも旦那様と、神様が造り出した植物とか動物ってなんて美しいんだろうね、としみじみとしておりました。



さて、前回までに、本当の「救い」のお話をしました。救われたくなった方はいたでしょうか?今日は、救われた人たちがいく、天国ってどんなところ?というのを聖書から見てみましょう。だいたいみなさんのイメージにある天国って、多分イタリア方面のキリスト教宗教画的イメージかもしれませんが、本当はどんな所なんでしょうか?


ヨハネの福音書 14:2−3 「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなけば、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」


上の言葉はイエス様の言葉です。私の父の家、というのが天国のことです。そこには、救われた私たち一人一人のために、家が用意してあります。神様が救うべき人間をすべて救い、場所がすべて整った時、イエス様が救われた者たちを天国を連れて帰るためにいらっしゃいます。それが、キリスト者たちが待ち望む、イエス様の再臨の時ですが、よく映画とかにもなっているように、それが世界の終わりの時と言われています。神様はノアの時代に洪水によって世界を一掃したように、いまの混とんとした世の中を一新されるのです。


ヨハネの黙示録 21:3-4 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」


天国には、私たちがこの世で苦しまなければならなかった悲しみも、苦労もありません。それは、新しいエルサレムと呼ばれていますが、その詳しい様子は次回お届けすることにして、私たち夫婦が大好きな聖歌をお届けします。天国を待ちわびる希望に満ちた歌です。

メロディはこちらからどうぞ。Lorain County Free- Net Chapelからです。

http://misslink.org/chapel/sound/whataday.mid


WHAT A DAY THAT WILL BE

By Jim Hill

There is coming a day when no heart aches shall come,
No more clouds in the sky, no more tears to dim the eye;
All is peace forever more on that happy golden shore,
What a day, glorious day that will be

(Chorus)
What a day that will be when my Jesus I shall see,
And I look upon His face, the One Who saved me by His grace:
When He takes me by the hand, and leads me through the Promised Land,
What a day, glorious day that will be.

There'll be no sorrow there, no more burdens to bear,
No more sickness, no pain, no more parting over there;
And forever I will be with the One Who died for me,
What a day, glorious day that will be.

(Chorus)
What a day that will be when my Jesus I shall see,
And I look upon His face, the One Who saved me by His grace:
When He takes me by the hand, and leads me through the Promised Land,
What a day, glorious day that will be.



2008年3月5日

狭い門 (愛の話 8)

だいぶ春めいてきましたね。私は春が大好きです。空気が甘いし、空は明るいし、鳥はかわいいし、なんかうきうきしますよね。新学期が嫌いだから春は嫌いといっていた友人がいますが、何事も前向き思考でいきましょう。


さて、今回はイエス様の十字架の上でのお仕事について。

ヨハネの福音書 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」

神様は信じるけど、キリスト教って、なんでイエス様を信じないといけないの?という質問をよく聞きます。その答えは簡単です。いままで話をしてきたように、人間は神様と離れてしまいました。そして、その罪深い性質からそのままでは神様のもとに帰ることができなくなってしまいました。そこで神様は、人間と神様の橋渡しとしてイエス様を地上に送られました。イエス様は神様ご自身です。その罪のない存在であるイエス様が人間の罪を背負って、不実の罪で十字架にかかって血を流して死にます。これは神様への罪の償いの生け贄としての象徴です。前にも述べたように、昔人間は罪を犯すたびに汚れのない羊など動物の血をもって生け贄として、神様への償いとしていたのですが、イエス様はそれらの伝統を打ち切り、またイエス様の神としての存在を信じる者のみが、本当の神様のもとへ帰ることができる道を整えられたのです。「わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」というのが、イエス様の償いを信じる者の魂のみが、神様のもとに帰ることができる、という意味です。

ヨハネの福音書 11:25-26 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」


イエス様は、神様ですので、一度十字架にかかって死にますが、3日後にお墓からでてきて12使徒たちのまえに姿をあらわします。12使徒たちは普通の人間ですので、前々からイエス様が自分の行うことを伝えていたのですが、信じたり信じられなかったりしていました。さて、上の聖句はあなた方個人個人に向けられたイエス様からの言葉です。「わたしは復活であり、命である。」というのは、イエス様ご自身が、神様なので命そのものであることと、復活であるというのは、人間の魂を死から救う=復活させる存在であるということを象徴します。「わたしを信じるものは、死んでも生きる。」というのは、イエス様の復活を信じるものは、肉体が死んだのちも、その魂は永遠に{神様のもとに帰る=生きている}ことができる、という意味です。「生きていてわたしを信じる者は、誰も、決して死ぬことはない。」というのは、今、現在この世に生きていて、イエス様の救いを信じているものは、肉体に死がおとずれてもその魂は恐ろしい地獄をさまようことなく、神様のもとに帰り、天国で楽しむことができる、という意味です。さて、あなたは、このことを信じますか?

ヨハネの黙示録 21:6−7 「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者には、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。」


イエス様はまた、イエス様を信じ、救われた者に対してその安全と恵みを約束してくださっています。「初めであり、終わりである」というのは、神様が世界をお作りになった初めであり、そしてそれを終わらせることもできる存在であることをいっています。渇いている者、とは私たち一人一人のこと、神様の恵みを日々必要としている人間達です。神様を信じ、従うならば「命の水の泉から価なしに飲ませよう」といって、常なる恵みを約束してくださっています。「勝利を得る者」というのは、救われたのち、罪や誘惑に神様の力によって打ち勝ち、その鎖にもう縛られていない者のことです。つまり、自分の罪を認め、救いを求めたものには罪や誘惑に打ち勝つ力を神様はお与えくださるのです。

マタイの福音書 11:28-30 疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

罪にがんじがらめになっているとき、それは本当に重荷です。イエス様はいっています。「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。 今日、あなたは悩んでいたり、心に重荷がありませんか?すべて神様に預けてしまいましょう。本当の安らぎというのは、なんとかセラピーなどで得られるものではありません。唯一、イエス様の救いに寄り頼むことに寄ってのみ、可能なことなのです。

今日、心に重荷のある人、神様に寄り頼んで、救われることをお勧めします。心のなかで、唱えてみましょう。「イエス様、私は自分がいままで愚かな罪をたくさん犯してきたことを知っています。今、この心に重たくて仕方がありません。あなたが、私たちのかわりに罪を洗い流してくださったことを信じます。どうか、わたしの心に入ってきて私を救って下さい。そしてこれからあなたにしたがって歩むべき道をお教えください。イエス様の名によってお祈りします。アーメン」


さて、おまけです。わたしの大好きな曲を紹介します。メロディが聞きたかったら、こちらへアクセスしてみてください。

http://ingeb.org/spiritua/atthecro.mid


コリント信徒への手紙1 1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です

At The Cross
Lyrics Isaac Watts & Ralph E. Hudson


Alas! and did my Savior bleed? And did my Sovereign die?
Would He devote that sacred head For sinners such a one as I?

*At the cross, at the cross where I first saw the light,
And the burden of my heart rolled away
It was there by faith I received my sight, And now I am happy all the day!

Was it for crimes that I have done He groaned upon the tree?
Amazing pity! grace unknown! And love beyond degree!

(* repeat)

Well might the sun in darkness hide And shut His glories in,
When Christ, the mighty Maker, died For man the creature's sin.

(* repeat)

But drops of grief can never repay The debt of love I owe;
Here, Lord, I give myself away-'Tis all that I can do!

(* repeat)

墨よりも黒き 心なれど
雪よりも白く 洗われたり
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

疑い恐れは 消えてあらず
闇夜は変わりて 昼となれり
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

日々己をすて 十字架を取り
ただ主に従い 道を歩まん
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

今 主を見ずとも 信ずるわれの
楽しみ 栄えは 限りあらじ
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

「墨よりも黒き心なれど」新聖歌 258番
歌詞 笹尾鉄三郎 1868-1914

Music "At the Cross" Ralph E. Hudson 1843-1901


2008年2月28日

SOS (愛の話 7)

アメリカの南部にいくと、そこは本当にクリスチャンカントリーです。とくにバージニアとかからテキサス方面へ延びるバイブル・ベルトと呼ばれる地域では、車で高速道路を走っていると、ものすごく巨大な十字架がいくつもたっていたり、マクドナルドの宣伝のとなりに大きく"JESUS LOVES YOU"なんて広告(?)がでていたりします。上の画像はgoogle map から。アイダホにあるみたいです。

私の旦那様も、数少ない日本語ボキャブラリーを用いて「イエスサマハ、アナタヲ、アイシテイマス。」といいながら日本人に笑顔で対応していますが、新約聖書の1番大切なメッセージって、"JESUS LOVES YOU"なんです。今日はこの神様の偉大な愛について。


ヨハネの福音書  3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネの手紙1 4:8−10 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。



前回も挙げたこの二つの聖句を見てみましょう。「独り子」「御子」というのが、イエス・キリストのことです。聖書には、イエス・キリスト、神そして聖霊は3つであり一体であるもの、とされています。イエス様は地球に人間として生まれてくるまえも、ずっと天国に存在なさっているので、旧約聖書とかを読んでいると、たまに神の御遣いとして登場します。モーセの時代、イスラエルの人々は罪を犯すたびに、生け贄の羊や牛を神様にささげ、その血をもって罪は清められるものとされていました。そうして、人々は予言にある「救世主」の登場を待ち望んでいます。新約聖書にはいると、神様はイヴに約束したように、彼らの子孫から救世主を登場させます。その母として選ばれたのがマリアで、地球上での肉体をもつ母親として、夫のヨセフとイエス様を育てます。(たまに、マリアはずっと処女だったと信じている方がいますが、聖書によると、マリアはイエスを産んだ後、ヨセフと普通に夫婦として子供をつくったのでイエス様には半分兄弟姉妹が何人かいたんですよ。新約聖書の一つ、ヤコブ章を書いた人も、そのうちの1人といわれています。)

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」これは、どういうことでしょうか。わたしたちが生きるようになる、というのは、永遠の命を得るということです。永遠の命って、なんでしょうか。これは、肉体が死んだ後、私たちの魂、霊が神様と共にいることができる、ということです。エデンの園の話をしたときに書いたように、アダムとイヴはエデンの園で神様と共に生きていました。つまり、永遠の命をもっていたのです。しかし、神様と隔絶してしまって以来、私たちの魂は神様から離れてしまい、暗闇をさまようことになってしまったのです。そうして、人間は自分たちで神様を創り出すようになりました。木や石を彫ってそれを神様として拝んだり、黄金の牛をつくってそれを神様として拝んだり。見えなくなってしまった神に、自分たちの罪を認めて許しをこうよりも、神がいないのならば創ればいい、というアイデアに傾倒してしまいました。さて、十戒を思い出してみてください。神様は、第一に「神は私1人である」「偶像を礼拝してはいけない」といっていますが、人間はそれを無視しました。これは、霊が死んでいるため、精神的に盲目になっている状態です。神の正しさを求めるのではなく、自分たちの正しさを押し通そうという姿勢が、そこにみられます。

こんなわけで、人間たちはまったく「救いようのない状態」にはまり、それはさらに泥沼化していきます。誰も、本当の神様を求めなくなってしまったからです。けれど、神様は、自分の作り出した人間たちに情を示します。そして、このままでは皆死んでから地獄に行ってしまうという泥沼状態から人間たちを脱出させるため、イエス様を天国から地上へと送りました。それが、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ということです。

私たち人間は、自分たち自身の努力でその身を地獄から天国へと救うことはできません。「コヘレトの言葉」を読むと、美しい詩としてよく書かれていますが、人間とは本当に何もできないむなしい存在です。また、「ヤコブの手紙」にはこう書かれています。


ヤコブの手紙 4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。


本当の「救い」というのが、慈善事業をどの位したか、とか、どのくらい多額の金を宗教団体に寄付したかとかそういうもので計られてしまったら、カンボジアにいる飢えている子供たちには救われるチャンス、というのはまったくないことになってしまいます。「救い」とは、あくまでも人間すべてに差し伸べられている手、神様からの贈り物なんです。けれど、それを受け取るか、受け取らないかは私たち個人個人の自由です。神様は人間に自由意思を与えられたからです。

よくキリスト教まがいのカルト団体では、寄付金を強要したり、勧誘のノルマがあったり、強制合宿があったりして、これだけの事をやらないと、お前は地獄に落ちる、とか呪われる、とかいう感じで脅されるようです。もしも皆さんもそういう目にあいそうになったら素早く逃げてください。カルト団体は、「恐怖心」を利用してマインドコントロールしますから。けれど、イエス様の愛は、こういう「恐怖」を一掃するものです。これは、くじけそうな時に私をいつも勇気づけてくれた私の大好きな聖句です。

"For God hath not given us the spirit of fear; but of power, and of love,and of a sound mind"(2Timothy 1:7) 

テモテへの手紙2 1:7 神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちに与えて下さったのです。
 

私たちはしょっちゅうSOSを出しています。でも、皆さんはそれを神様にむけてだしていますか?真の助けというのは、神様のみからくるものです。「自分が信じている」と信じている神様が、誰なのかわかっているでしょうか。世の中にはたくさんの嘘の神様があります。でも、それを見極めるのは難しいことではないんです。神様に真実を見せてくれるように頼まないといけなんですが。

ではでは、次回はイエス様が十字架の上でした仕事について!