2008年3月5日

狭い門 (愛の話 8)

だいぶ春めいてきましたね。私は春が大好きです。空気が甘いし、空は明るいし、鳥はかわいいし、なんかうきうきしますよね。新学期が嫌いだから春は嫌いといっていた友人がいますが、何事も前向き思考でいきましょう。


さて、今回はイエス様の十字架の上でのお仕事について。

ヨハネの福音書 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」

神様は信じるけど、キリスト教って、なんでイエス様を信じないといけないの?という質問をよく聞きます。その答えは簡単です。いままで話をしてきたように、人間は神様と離れてしまいました。そして、その罪深い性質からそのままでは神様のもとに帰ることができなくなってしまいました。そこで神様は、人間と神様の橋渡しとしてイエス様を地上に送られました。イエス様は神様ご自身です。その罪のない存在であるイエス様が人間の罪を背負って、不実の罪で十字架にかかって血を流して死にます。これは神様への罪の償いの生け贄としての象徴です。前にも述べたように、昔人間は罪を犯すたびに汚れのない羊など動物の血をもって生け贄として、神様への償いとしていたのですが、イエス様はそれらの伝統を打ち切り、またイエス様の神としての存在を信じる者のみが、本当の神様のもとへ帰ることができる道を整えられたのです。「わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」というのが、イエス様の償いを信じる者の魂のみが、神様のもとに帰ることができる、という意味です。

ヨハネの福音書 11:25-26 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」


イエス様は、神様ですので、一度十字架にかかって死にますが、3日後にお墓からでてきて12使徒たちのまえに姿をあらわします。12使徒たちは普通の人間ですので、前々からイエス様が自分の行うことを伝えていたのですが、信じたり信じられなかったりしていました。さて、上の聖句はあなた方個人個人に向けられたイエス様からの言葉です。「わたしは復活であり、命である。」というのは、イエス様ご自身が、神様なので命そのものであることと、復活であるというのは、人間の魂を死から救う=復活させる存在であるということを象徴します。「わたしを信じるものは、死んでも生きる。」というのは、イエス様の復活を信じるものは、肉体が死んだのちも、その魂は永遠に{神様のもとに帰る=生きている}ことができる、という意味です。「生きていてわたしを信じる者は、誰も、決して死ぬことはない。」というのは、今、現在この世に生きていて、イエス様の救いを信じているものは、肉体に死がおとずれてもその魂は恐ろしい地獄をさまようことなく、神様のもとに帰り、天国で楽しむことができる、という意味です。さて、あなたは、このことを信じますか?

ヨハネの黙示録 21:6−7 「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者には、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。」


イエス様はまた、イエス様を信じ、救われた者に対してその安全と恵みを約束してくださっています。「初めであり、終わりである」というのは、神様が世界をお作りになった初めであり、そしてそれを終わらせることもできる存在であることをいっています。渇いている者、とは私たち一人一人のこと、神様の恵みを日々必要としている人間達です。神様を信じ、従うならば「命の水の泉から価なしに飲ませよう」といって、常なる恵みを約束してくださっています。「勝利を得る者」というのは、救われたのち、罪や誘惑に神様の力によって打ち勝ち、その鎖にもう縛られていない者のことです。つまり、自分の罪を認め、救いを求めたものには罪や誘惑に打ち勝つ力を神様はお与えくださるのです。

マタイの福音書 11:28-30 疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

罪にがんじがらめになっているとき、それは本当に重荷です。イエス様はいっています。「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。 今日、あなたは悩んでいたり、心に重荷がありませんか?すべて神様に預けてしまいましょう。本当の安らぎというのは、なんとかセラピーなどで得られるものではありません。唯一、イエス様の救いに寄り頼むことに寄ってのみ、可能なことなのです。

今日、心に重荷のある人、神様に寄り頼んで、救われることをお勧めします。心のなかで、唱えてみましょう。「イエス様、私は自分がいままで愚かな罪をたくさん犯してきたことを知っています。今、この心に重たくて仕方がありません。あなたが、私たちのかわりに罪を洗い流してくださったことを信じます。どうか、わたしの心に入ってきて私を救って下さい。そしてこれからあなたにしたがって歩むべき道をお教えください。イエス様の名によってお祈りします。アーメン」


さて、おまけです。わたしの大好きな曲を紹介します。メロディが聞きたかったら、こちらへアクセスしてみてください。

http://ingeb.org/spiritua/atthecro.mid


コリント信徒への手紙1 1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です

At The Cross
Lyrics Isaac Watts & Ralph E. Hudson


Alas! and did my Savior bleed? And did my Sovereign die?
Would He devote that sacred head For sinners such a one as I?

*At the cross, at the cross where I first saw the light,
And the burden of my heart rolled away
It was there by faith I received my sight, And now I am happy all the day!

Was it for crimes that I have done He groaned upon the tree?
Amazing pity! grace unknown! And love beyond degree!

(* repeat)

Well might the sun in darkness hide And shut His glories in,
When Christ, the mighty Maker, died For man the creature's sin.

(* repeat)

But drops of grief can never repay The debt of love I owe;
Here, Lord, I give myself away-'Tis all that I can do!

(* repeat)

墨よりも黒き 心なれど
雪よりも白く 洗われたり
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

疑い恐れは 消えてあらず
闇夜は変わりて 昼となれり
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

日々己をすて 十字架を取り
ただ主に従い 道を歩まん
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

今 主を見ずとも 信ずるわれの
楽しみ 栄えは 限りあらじ
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

「墨よりも黒き心なれど」新聖歌 258番
歌詞 笹尾鉄三郎 1868-1914

Music "At the Cross" Ralph E. Hudson 1843-1901