2008年12月23日

クリスマスのお話


 

クリスマスといって何を一番に思い浮かべますか?サンタクロース、もみの木、トナカイ、リース、雪、パーティー。。。いろいろなもので隠されてしまっていますが、クリスマスの本来の意味は、CHRISTMASという綴りからもわかるように、イエス キリストの生誕を祝う日です。

ごちゃごちゃと説明するよりも、読んでしまったほうがわかりやすいので、ルカ書をみてみましょう。

 

ルカ2章1節—21節

皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使達が離れて天に去った時、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか。」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て,羊飼い達は、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼い達の話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心におさめて、思いめぐらしていた。羊飼い達は、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えた時、幼子はイエスと名付けられた。これは、体内に宿る前に天使から示された名である。

イエス様の出生は、旧約聖書の時代、イザヤ書にすでに予言されていました。

イザヤ書8章14節

わたしの主が御自らあなた達に印を与えられる。見よ、処女(おとめ)が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルEmmanuel=God with us:神が私達とともにあるという意味)と呼ぶ。

イザヤ書9章5節

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。

その後成長したイエスは、ヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川に赴きます。そのイエスをみて、ヨハネはこういいました。

ヨハネの福音書1:29

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」

 さて、上記のイザヤ書では、「権威が彼の肩にある」とありますが、それはいったいどんな権威なのでしょうか。ヨハネの福音書に、イエスがユダヤ人達にはっきりと語っています。

ヨハネの福音書5:21−22

父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きはいっさい子に任せておられる。

 ここでいう「父」とは神様、「子」とはイエス様のことを指します。

 ヨハネの福音書5:24−29

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、ご自身の内に命をもっておられるように、子にも自分の内に命を持つ様にして下さったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。

 つまりイエス様には、裁きを行う権能が神様から与えられている、ということなのです。では、裁きとは、どういった裁きなのでしょうか。

第2コリント 5:10

わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前にたち、善であれ悪であれ、めいめい体をすみかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです

 ローマ章 14:10−11

わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前にたつのです。こう書いてあります。「主は言われる。わたしは生きている。すべての膝はわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」と。それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

 神様は神聖な存在です。私達、罪をもって生まれてくる人間は神様と直接話をすることはできません。私達と神様の間を執りなしてくださるのが、イエス様なのです。そして、神様はそのイエス様に、裁きの権能をお与えになりました。すなわち、私達は自分の罪を反省し悔いるとき、イエス様の名を呼び許しを請うのは、私達の罪を洗い流す権限はイエス様が持っているからなんです。

 ローマ章 8:34

復活させられた方であるキリスト イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執りなして下さるのです。

ローマ章 3:23−26

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは今まで人がおかした罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じるものを義となさるためです。

 「義」というのは、罪を洗い流された状態のことです。つまり、イエスが十字架にかかり、全人類の罪を背負って死に、3日後に生き返った、という聖書の史実を信じ、神の御子であるイエスに自分も罪から清めてくれるように頼むこと、それが「救われる」ということです。

ヨハネ 3:17−21

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行うものは皆,光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方にこないからである。しかし、真理を行う者は光の方にくる。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

 イエス様が生まれたこのクリスマスの夜、それは暗闇の浮き世に一筋の光が差し込んだ夜なのでした。まだイエス様を信じていない人は、このクリスマス、ぜひ神様からの贈り物である「救い」を受け取ってください。

 クリスマスの定番の曲、「きよしこの夜」は、そんな情景を美しく歌った歌なのでした。

 賛美歌109番

 

清し この夜 星は光り

救いの御子(みこ)は 馬槽(まぶね)の中に

眠り給う いと安く

 

清し この夜 御告(みつ)げ受けし

牧人達は 御子の御前(みまえ)

ぬかずきぬ かしこみて

 

清し この夜 御子の笑みに

恵みの御代(みよ)の 朝(あした)の光

輝けり ほがらかに

 

英語の歌詞およびメロディはCyber Hymnalからご覧ください!

http://www.cyberhymnal.org/htm/s/i/silntnit.htm

 

では、素敵なクリスマスをお過ごしください。。。!!