詩編116章
わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。
死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ
苦しみと嘆きを前にして 主の御名をわたしは呼ぶ。
「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
主は憐れみ深く、正義を行われる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は
弱り果てたわたしを救ってくださる。
わたしの魂よ、再び安らうがよい
主はお前に報いてくださる。
あなたは私の魂を死から
わたしの目を涙から
わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。
命あるものの地にある限り、わたしは主の御前に歩み続けよう。
わたしは信じる
「激しい苦しみに襲われている」というときも
不安がつのり、人は必ず欺く、と思う時も。
主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
救いの杯を上げて主の御名を呼び
満願の献げ物を主にささげよう
主の民すべての見守る前で。
主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
どうか主よ、わたしの縄目を解いて下さい。
わたしはあなたの僕。
わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
あなたに感謝のいけにえをささげよう。
主の御名を呼び 主に満願の献げ物をささげよう
主の民すべての見守る前で
主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。
この詩編は、実によく神による個人の魂の「救い」があらわれていると思います。
イエス様による魂の救いは、私達の魂を永遠の死、地獄から救い出してくださいます。そして私達の目の涙を拭い、人間による裏切りなどによって心痛むときも、安らぎを与えて下さるのです。じっくりこの詩編を読んでみて下さい。
2009年5月16日
狭い門
マタイの福音書7:13−14
ENTER YE IN AT THE STRAIT GATE; FOR WIDE IS THE GATE, AND BROAD IS THE WAY, THAT LEADETH TO DESTRUCTION, AND MANY THERE BE WHICH GO IN THEREAT: BECAUSE STRAIT IS THE FATE, AND NARROW IS THE WAY, WHICH LEADETH UNTO LIFE, AND FEW THERE BE THAT FIND IT.
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
神様は、私達に二つの道を示して下さっています。ひとつは、広々としていて真っ直ぐで、多くの人が向かって行く滅びに通じる門。もう一つは、細い道から続く狭い門で、少数の人だけが見つけることができる、命に通じる門です。滅びか、命か、その二つです。
詩編1:6
FOR THE LORD KNOWETH THE WAY OF THE RIGHTEOUS: BUT THE WAY OF THE UNGODLY SHALL PERISH.
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
二つの道とはまた、神様に従う人の道と神様に逆らう人の道です。では、神様に従う事、とはどういう事でしょうか?
箴言 21:2
EVERY WAY OF A MAN IS RIGHT IN HIS OWN EYES: BUT THE LORD PONDERETH THE HEARTS.
人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中をはかられる。
世の中には様々な宗教が存在しますが、それらの形式的な儀式を追う事が、神様に喜ばれることでしょうか?それは違います。神様は、私達人間の心の中をご存知です。キリストはマタイの福音書23章でこれらの人々についてはっきりと批判しています。23章全部を読んでみてください。
マタイの福音書 23:25
WOE UNTO YOU, SCRIBES AND PHARISEES, HYPOCRITES! FOR YE MAKE CLEAN THE OUTSIDE OF THE CUP AND OF THE PLATTER, BUT WITHIN THEY ARE FULL OF EXORTION AND EXCESS.
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
形式ばかりの宗教やカルトは、神様に従う道ではありません。
マタイの福音書22:36、37
THEN ONE OF THEM, WHICH WAS A LAWYER, ASKED HIM A QUESTION, TEMPTING HIM, AND SAYING, MASTER, WHICH IS THE GREAT COMMANDMENT IN THE LAW? JESUS SAID UNTO HIM, THOU SHALT LOVE THE LORD THY GOD WITH ALL THY HEARTM AND WITH ALL THY SOUL, AND WITH ALL THY MIND.
律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい.』
イエスは、神様を心から愛すること、それが最も重要であると言っています。ではどうしたら、神様を愛することができるのでしょうか?それは、救われることです。私達は、救われると内側から清められ、新しく生まれ変わります。
パウロは、コリント信徒への手紙2でこのように述べています。
5章17節
THEREFORE IF ANY MAN BE IN CHRIST, HE IS A NEW CREATURE: OLD THINGS ARE PASSED AWAY; BEHOLD, ALL THINGS ARE BECOME NEW.
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
人間の心は、誰しも汚いものです。しかし、それを清らかにしてくれるのが、イエス·キリストの救済の奇跡なのです。罪により神様から離れてしまった私達と神様との中を仲介してくださる方、それが唯一、イエス·キリストです。パウロはこうつづけます。
5章18−20節
AND ALL THINGS ARE OF GOD, WHO HATH RECONCILED US TO HIMSELF BY JESUS CHRIST, AND HATH GIVEN TO US THE MINISTRY OF RECONCILIATION; TO WIT, THAT GOD WAS IN CHRIST, RECONCILING THE WORLD UNTO HIMSELF, NOT IMPUTING THEIR TRESPASSES UNTO THEM; AND HATH COMITTED UNTO US THE WORD OF RECONCILIATION. NOW THEN WE ARE AMBASSADORS FOR CHRIST, AS THOUGH GOD DID BESEECH YOU BY US: WE PRAY YOU IN CHRIST’S STEAD, BE YE RECONCILED TO GOD.
これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問う事なく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
あなたは、イエス·キリストに神様と和解させていただけるように、もうお願いしましたか?道は二つしかありません。破滅か、命か。永遠の炎に自ら身を投じないでください。私達のこの肉体は、今日死ぬかもわからないのですから!
ヨハネの福音書14章6節
JESUS SAITH UNTO HIM, I AM THE WAY, THE TRUTH, AND THE LIFE: NO MAN COMETH UNTO THE FATHER, BUT BY ME.
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行く事ができない。」
ENTER YE IN AT THE STRAIT GATE; FOR WIDE IS THE GATE, AND BROAD IS THE WAY, THAT LEADETH TO DESTRUCTION, AND MANY THERE BE WHICH GO IN THEREAT: BECAUSE STRAIT IS THE FATE, AND NARROW IS THE WAY, WHICH LEADETH UNTO LIFE, AND FEW THERE BE THAT FIND IT.
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
神様は、私達に二つの道を示して下さっています。ひとつは、広々としていて真っ直ぐで、多くの人が向かって行く滅びに通じる門。もう一つは、細い道から続く狭い門で、少数の人だけが見つけることができる、命に通じる門です。滅びか、命か、その二つです。
詩編1:6
FOR THE LORD KNOWETH THE WAY OF THE RIGHTEOUS: BUT THE WAY OF THE UNGODLY SHALL PERISH.
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
二つの道とはまた、神様に従う人の道と神様に逆らう人の道です。では、神様に従う事、とはどういう事でしょうか?
箴言 21:2
EVERY WAY OF A MAN IS RIGHT IN HIS OWN EYES: BUT THE LORD PONDERETH THE HEARTS.
人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中をはかられる。
世の中には様々な宗教が存在しますが、それらの形式的な儀式を追う事が、神様に喜ばれることでしょうか?それは違います。神様は、私達人間の心の中をご存知です。キリストはマタイの福音書23章でこれらの人々についてはっきりと批判しています。23章全部を読んでみてください。
マタイの福音書 23:25
WOE UNTO YOU, SCRIBES AND PHARISEES, HYPOCRITES! FOR YE MAKE CLEAN THE OUTSIDE OF THE CUP AND OF THE PLATTER, BUT WITHIN THEY ARE FULL OF EXORTION AND EXCESS.
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
形式ばかりの宗教やカルトは、神様に従う道ではありません。
マタイの福音書22:36、37
THEN ONE OF THEM, WHICH WAS A LAWYER, ASKED HIM A QUESTION, TEMPTING HIM, AND SAYING, MASTER, WHICH IS THE GREAT COMMANDMENT IN THE LAW? JESUS SAID UNTO HIM, THOU SHALT LOVE THE LORD THY GOD WITH ALL THY HEARTM AND WITH ALL THY SOUL, AND WITH ALL THY MIND.
律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい.』
イエスは、神様を心から愛すること、それが最も重要であると言っています。ではどうしたら、神様を愛することができるのでしょうか?それは、救われることです。私達は、救われると内側から清められ、新しく生まれ変わります。
パウロは、コリント信徒への手紙2でこのように述べています。
5章17節
THEREFORE IF ANY MAN BE IN CHRIST, HE IS A NEW CREATURE: OLD THINGS ARE PASSED AWAY; BEHOLD, ALL THINGS ARE BECOME NEW.
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
人間の心は、誰しも汚いものです。しかし、それを清らかにしてくれるのが、イエス·キリストの救済の奇跡なのです。罪により神様から離れてしまった私達と神様との中を仲介してくださる方、それが唯一、イエス·キリストです。パウロはこうつづけます。
5章18−20節
AND ALL THINGS ARE OF GOD, WHO HATH RECONCILED US TO HIMSELF BY JESUS CHRIST, AND HATH GIVEN TO US THE MINISTRY OF RECONCILIATION; TO WIT, THAT GOD WAS IN CHRIST, RECONCILING THE WORLD UNTO HIMSELF, NOT IMPUTING THEIR TRESPASSES UNTO THEM; AND HATH COMITTED UNTO US THE WORD OF RECONCILIATION. NOW THEN WE ARE AMBASSADORS FOR CHRIST, AS THOUGH GOD DID BESEECH YOU BY US: WE PRAY YOU IN CHRIST’S STEAD, BE YE RECONCILED TO GOD.
これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問う事なく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
あなたは、イエス·キリストに神様と和解させていただけるように、もうお願いしましたか?道は二つしかありません。破滅か、命か。永遠の炎に自ら身を投じないでください。私達のこの肉体は、今日死ぬかもわからないのですから!
ヨハネの福音書14章6節
JESUS SAITH UNTO HIM, I AM THE WAY, THE TRUTH, AND THE LIFE: NO MAN COMETH UNTO THE FATHER, BUT BY ME.
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行く事ができない。」
2009年5月7日
テモテへの手紙
第一テモテ2:4−6
WHO WILL HAVE ALL MEN TO BE SAVED, AND TO COME UNTO THE KNOWLEDGE OF THE TRUTH. FOR THERE IS ONE GOD, AND ONE MEDIATOR BETWEEN GOD AND MEN, THE MAN CHRIST JESUS; WHO GAVE HIMSELF A RANSOM FOR ALL, TO BE TESTIFIED IN DUE TIME.
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト·イエスただおひとりなのです。この方はすべての人のあがないとして御自身を献げられました。
新約聖書にある第一、第二テモテは、パウロから若い牧師であるテモテへ向けられた教えと励ましの手紙です。イエス様の福音を信じ、信仰を持ってクリスチャンになった人には、とても有益な教えがたくさん書かれているので、是非何度も通して読んでみて下さい。とても短い書なので、聖書通読を怠けがちな方も是非チャレンジしてみてください。
パウロはここではっきりと、福音は全ての人々に伝えられるべきものであると言っています。神様は、私達人間がすべて地獄に落ちない様にと、イエス·キリストを仲介者として地上に送られました。私達が神様による地獄からの救済を受けるには、イエス·キリストのあがないの業を信じ、十字架の上で流された血によって、私達の罪も洗い流していただけるよう、いままでの罪を反省し、イエス様の名によって、神様へと仲介していただく事が唯一の手段です。天国と地獄、あなたはどちらを選びますか?
第一テモテ6:7−10
FOR WE BROUGHT NOTHING INTO THIS WORLD, AND IT IS CERTAIN WE CAN CARRY NOTHING OUT. AND HAVING FOOD AND RAIMENT LET US BE THEREWITH CONTENT. BUT THEY THAT WILL BE RICH FALL INTO TEMPTATION AND A SNARE, AND INTO MANY FOOLISH AND HURTFUL LUSTS, WHICH DROWN MEN IN DESTRUCTION AND PERDITION. FOR THE LOVE OF MONERY IS THE ROOT OF ALL EVIL; WHICH WHILE SOME COVETED AFTER, THEY HAVE ERRED FROM THE FAITH, AND PIERCED THEMSELVES THROUGH WITH MANY SORROWS.
わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持って行く事ができません。食べるものと着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害な様々の欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
「金の亡者」なんていう言葉がありますが、聖書もはっきりとその事を言っています。金銭の欲は、すべての悪の根です。これは、けっしてお金を持っていることがいけない、といっているのではありません。すべて、金もうけのためだけに生きようとすると、有害な欲望に陥る、とさとしているのです。この世で、仕事やお金が生き甲斐となってしまっていると、人生はなんと虚しいものだったのか、と後悔することでしょう。しかも、死んでから地獄の火に永遠に焼かれるなんて、なんのためにうまれてきたのか、悔やんでも悔やみきれないでしょう。このあいだ書いた、金持ちとラザロの金持ちはいまこの瞬間も、天にいるラザロを眺めながら、灼熱の炎に焼かれて苦しんでいるのです。
第一テモテ6:15−16
WHICH IN HIS TIMES HE SHALL SHEW, WHO IS THE BLESSED AND ONLY POTENTATE, THE KING OF KINGS, AND LORD OF LORDS; WHO ONLY HATH IMMORTALITY, DWELLING IN THE LIGHT WHICH NO MAN CAN APPROACH UNTO; WHOM NO MAN HATH SEEN, NOR CAN SEE: TO WHOM BE HONOUR, AND POWER EVERLASTING. AMEN.
神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見た事が無く、見る事のできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。
唯一の真理を伝えてくださるイエス·キリストを今日、信じてみませんか?
WHO WILL HAVE ALL MEN TO BE SAVED, AND TO COME UNTO THE KNOWLEDGE OF THE TRUTH. FOR THERE IS ONE GOD, AND ONE MEDIATOR BETWEEN GOD AND MEN, THE MAN CHRIST JESUS; WHO GAVE HIMSELF A RANSOM FOR ALL, TO BE TESTIFIED IN DUE TIME.
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト·イエスただおひとりなのです。この方はすべての人のあがないとして御自身を献げられました。
新約聖書にある第一、第二テモテは、パウロから若い牧師であるテモテへ向けられた教えと励ましの手紙です。イエス様の福音を信じ、信仰を持ってクリスチャンになった人には、とても有益な教えがたくさん書かれているので、是非何度も通して読んでみて下さい。とても短い書なので、聖書通読を怠けがちな方も是非チャレンジしてみてください。
パウロはここではっきりと、福音は全ての人々に伝えられるべきものであると言っています。神様は、私達人間がすべて地獄に落ちない様にと、イエス·キリストを仲介者として地上に送られました。私達が神様による地獄からの救済を受けるには、イエス·キリストのあがないの業を信じ、十字架の上で流された血によって、私達の罪も洗い流していただけるよう、いままでの罪を反省し、イエス様の名によって、神様へと仲介していただく事が唯一の手段です。天国と地獄、あなたはどちらを選びますか?
第一テモテ6:7−10
FOR WE BROUGHT NOTHING INTO THIS WORLD, AND IT IS CERTAIN WE CAN CARRY NOTHING OUT. AND HAVING FOOD AND RAIMENT LET US BE THEREWITH CONTENT. BUT THEY THAT WILL BE RICH FALL INTO TEMPTATION AND A SNARE, AND INTO MANY FOOLISH AND HURTFUL LUSTS, WHICH DROWN MEN IN DESTRUCTION AND PERDITION. FOR THE LOVE OF MONERY IS THE ROOT OF ALL EVIL; WHICH WHILE SOME COVETED AFTER, THEY HAVE ERRED FROM THE FAITH, AND PIERCED THEMSELVES THROUGH WITH MANY SORROWS.
わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持って行く事ができません。食べるものと着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害な様々の欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。
「金の亡者」なんていう言葉がありますが、聖書もはっきりとその事を言っています。金銭の欲は、すべての悪の根です。これは、けっしてお金を持っていることがいけない、といっているのではありません。すべて、金もうけのためだけに生きようとすると、有害な欲望に陥る、とさとしているのです。この世で、仕事やお金が生き甲斐となってしまっていると、人生はなんと虚しいものだったのか、と後悔することでしょう。しかも、死んでから地獄の火に永遠に焼かれるなんて、なんのためにうまれてきたのか、悔やんでも悔やみきれないでしょう。このあいだ書いた、金持ちとラザロの金持ちはいまこの瞬間も、天にいるラザロを眺めながら、灼熱の炎に焼かれて苦しんでいるのです。
第一テモテ6:15−16
WHICH IN HIS TIMES HE SHALL SHEW, WHO IS THE BLESSED AND ONLY POTENTATE, THE KING OF KINGS, AND LORD OF LORDS; WHO ONLY HATH IMMORTALITY, DWELLING IN THE LIGHT WHICH NO MAN CAN APPROACH UNTO; WHOM NO MAN HATH SEEN, NOR CAN SEE: TO WHOM BE HONOUR, AND POWER EVERLASTING. AMEN.
神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見た事が無く、見る事のできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。
唯一の真理を伝えてくださるイエス·キリストを今日、信じてみませんか?
2009年5月2日
金持ちとラザロ
ルカ書16章19−31節
ある金持ちがいた、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやってきては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかしアブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今はここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前達の間には大きな淵があって、ここからお前達の方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来る事もできない.』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が5人います。あの者達まで、こんな苦しい場所にくる事のないように、よく言い聞かせて下さい.』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟達にはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう.』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言う事を聞き入れはしないだろう.』
この話は、イエスが弟子達に様々なたとえ話をもって、救いの奇跡について教えているところです。ここで、金持ちは、この世で散々贅沢をして暮らしていましたが、神様を信じて救われてはいませんでした。一方、この世でひどい生活をしていたラザロは、信仰により神様を信じ救われていました。アブラハムは、旧約聖書のなかでも、神様への信仰により救われていた人間の象徴でもある人物で、この話では、天国の宴席において、ラザロはアブラハムの隣で喜びに満ちあふれています。一方、金持ちは救われていなかったため地獄に落ち、炎に焼かれながら、その苦しさのあまり渇ききって天国を見上げます。そこにラザロを見た彼は、水の一滴欲しさにアブラハムに語りかけます。また、救われていなかった事を後悔した金持ちは、せめて自分の兄弟達にはこの苦しみを味あわせたくないと思い、ラザロを彼らの元に送ってくれるように願います。死んだ者が現れて、天国と地獄が実現する事を述べれば、悔い改めて救いの道に入ってくれるだろうと思ったからです。しかし、アブラハムは、この世に救いのメッセージを述べ伝えている者たちがいるにも関わらず、それに聞く耳をもっていない彼らは、たとえ死人が甦って真実を語っても、それを受け入れる事は無いだろう、と言うのです。
今、生きている間に、私達はアフリカや第三国の人々に比べて、どんなに豊かに暮らしているでしょうか。経済が悪い、悪いと嘆いていても、食卓に何も無い、雨風から守ってくれる屋根も洋服も何もない、ということはなかなかありません。すると、私達の目は、この世のものばかりに気をとられていて、自分たちの肉体が死んだあとの世界の真実を、なかなか受け入れようとはしません。しかし、このたとえ話にある金持ちは、この世にいる間受け入れず、地獄に落ちてつくづく後悔しています。灼熱の炎に焼かれながら、そこから永遠に出る事のできない事実に直面し、せめて兄弟は天国に行ってほしいと願っています。しかし、兄弟達もまた、この世で福音を述べ伝える者がいるにも関わらず、それに耳を貸していなかったのです。
あなたは、今日、聞く耳を持たなかった金持ちでありますか?それとも、ラザロのように、信仰を持って永遠の行く先を天国に向けますか?私達はいつこの世からオサラバするかわからないのです。今日かもしれないし、明日かもしれません。死んでしまってからでは遅いのです。後悔先に立たず。決断を先延ばしにしないで下さい。イエス様はその御手を広げて、今日もあなたの決断を待って下さっているのです。
ある金持ちがいた、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやってきては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかしアブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今はここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前達の間には大きな淵があって、ここからお前達の方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来る事もできない.』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が5人います。あの者達まで、こんな苦しい場所にくる事のないように、よく言い聞かせて下さい.』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟達にはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう.』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言う事を聞き入れはしないだろう.』
この話は、イエスが弟子達に様々なたとえ話をもって、救いの奇跡について教えているところです。ここで、金持ちは、この世で散々贅沢をして暮らしていましたが、神様を信じて救われてはいませんでした。一方、この世でひどい生活をしていたラザロは、信仰により神様を信じ救われていました。アブラハムは、旧約聖書のなかでも、神様への信仰により救われていた人間の象徴でもある人物で、この話では、天国の宴席において、ラザロはアブラハムの隣で喜びに満ちあふれています。一方、金持ちは救われていなかったため地獄に落ち、炎に焼かれながら、その苦しさのあまり渇ききって天国を見上げます。そこにラザロを見た彼は、水の一滴欲しさにアブラハムに語りかけます。また、救われていなかった事を後悔した金持ちは、せめて自分の兄弟達にはこの苦しみを味あわせたくないと思い、ラザロを彼らの元に送ってくれるように願います。死んだ者が現れて、天国と地獄が実現する事を述べれば、悔い改めて救いの道に入ってくれるだろうと思ったからです。しかし、アブラハムは、この世に救いのメッセージを述べ伝えている者たちがいるにも関わらず、それに聞く耳をもっていない彼らは、たとえ死人が甦って真実を語っても、それを受け入れる事は無いだろう、と言うのです。
今、生きている間に、私達はアフリカや第三国の人々に比べて、どんなに豊かに暮らしているでしょうか。経済が悪い、悪いと嘆いていても、食卓に何も無い、雨風から守ってくれる屋根も洋服も何もない、ということはなかなかありません。すると、私達の目は、この世のものばかりに気をとられていて、自分たちの肉体が死んだあとの世界の真実を、なかなか受け入れようとはしません。しかし、このたとえ話にある金持ちは、この世にいる間受け入れず、地獄に落ちてつくづく後悔しています。灼熱の炎に焼かれながら、そこから永遠に出る事のできない事実に直面し、せめて兄弟は天国に行ってほしいと願っています。しかし、兄弟達もまた、この世で福音を述べ伝える者がいるにも関わらず、それに耳を貸していなかったのです。
あなたは、今日、聞く耳を持たなかった金持ちでありますか?それとも、ラザロのように、信仰を持って永遠の行く先を天国に向けますか?私達はいつこの世からオサラバするかわからないのです。今日かもしれないし、明日かもしれません。死んでしまってからでは遅いのです。後悔先に立たず。決断を先延ばしにしないで下さい。イエス様はその御手を広げて、今日もあなたの決断を待って下さっているのです。
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