2009年2月27日

命綱


詩編116

1−2節

I LOVE THE LORD, BECAUSE HE HATH HEARD MY VOICE AND MY SUPPLICATIONS. BECAUSE HE HATH INCLINED HIS EAR UNTO ME, THEREFORE WILL I CALL UPON HIM AS LONG AS I LIVE.

わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。

 

3−4節

THE SORROWS OF DEATH COMPASSED ME, AND THE PAINS OF HELL GAT HOLD UPON ME: I FOUND TROUBLE AND SORROW. THEN CALLED I UPON THE NAME OF THE LORD; O LORD, I BESEECH THEE, DELIVER MY SOUL.

死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救い下さい。」

 

5−7節

GRACIOUS IS THE LORD, AND RIGHTEOUS; YEA, OUR GOD IS MERCIFUL. THE LORD PRESERVETH THE SIMPLE: I WAS BROUGHT LOW, AND HE HELPED ME. RETUREN UNTO THY REST, O MY SOUL; FOR THE LORD HATH DEALT BOUNTIFULLY WITH THEE.

主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。哀れな人を守って下さる主は、弱り果てた私を救って下さる。私の魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いて下さる。

 

8−11節

FOR THOU HAST DELIVERED MY SOUL FROM DEATH, MINE EYES FROM TEARS, AND MY FEET FROM FALLING.  WILL WALK BEFORE THE LORD IN THE LAND OF THE LIVING. I BELIEVED, THEREFORE HAVE I SPOKEN: I WAS GREATELY AFFLICTED: I SAID IN MY HASTE, ALL MEN ARE LIARS.

あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から助け出して下さった。命あるものの地にある限り、わたしは主の御前に歩み続けよう。わたしは信じる。「激しい苦しみに襲われている」と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思う時も。


人間生きていると、おそらく人生に少なくとも一度位は、詩編116に自分が重なる体験があると思います。この詩編は、イエス·キリストが十字架にかかっている時の様子を表している、とあるコメンタリーには書いてありました。しかしそれだけでなく、この地上で生きていると、自分の弱さや絶望、裏切りや嘘に直面し、傷ついたり、悲しんだり、心痛む思いすることはたくさんあります。そんな時、わたしたちには正義をもって裁いてくださる神様がいます。四方八方を見回しても、誰も助けてくれそうにない時、あなたはどこを向きますか?

世の中には弱っている人を捕まえるいろいろなキャッチがありますが、本当の救い、魂の救済は唯一イエス·キリストにより頼むことによって可能です。私達人間はいつ交通事故や心臓麻痺でこの世から予想もせずにオサラバしなければいけないかわかりません。そうしたら、救われていない魂は一瞬で地獄行きです。死んでからの行く先なんて、死ぬ間際に考えればいいや、などと思わないで下さい。私達は自分の足下が崖っぷちに立っている事すら気がつかないのですから。まだ救いを求めていない方は、こう考えてみてください。あなたは、キリマンジャロの山頂で命綱無しに歩いています。両側は崖で、強い風が吹けば、足を滑らせて落ち、確実に命を失います。そんなとき、天から命綱が降りてきました。その命綱はあなたが残りの山頂を歩く旅の道しるべとなり、危険な時の支えとなってくれます。あなたはその命綱を掴みますか?それとも無視して歩き続けますか?

 

私達の命綱は、天から降りて来てくださったイエス·キリストです。今日、自分の今までの過ちや罪を反省し、命綱を心から喜んで受け取ってください。そこからの旅路は、まだ救われていないあなたには予想ができない程、まったく違ったものになりますよ。

 

2009年2月24日

一周年

2008年の2月半ばに始めたこのブログも、いつの間にか一周年です。一年がたつのは、こんなに早いものだったでしょうか、と歳をとるたびに思いますが。振り返ると、引っ越し、出産、また引っ越しと移動の多い一年でした。よく、アメリカと日本とどっちが住みやすい?という質問をされるのですが、どこの国に行っても、それぞれに良い所と悪い所とあるので、一概には決められませんね。イギリスにも長く住んだし、ヨーロッパも散々廻りましたが、結局は「住めば都」とはよく言ったもので、住んでいる土地そのものよりも、自分の状態がどうであるか、というのが一番重要なんだとわかりました。


かつて神様を知らなかった時は、東京にいてもロンドンにいても、どこかの田舎にいても、どんなに忙しく活動していても、心に空いた穴が埋まることはありませんでした。いつでも、どこでも、付きまとってくる空虚感と焦燥感、求めても満たされない、見回しても見つからない、何を追い求めているのか分からないのに、無我夢中で空を追うような、掴んでも掴んでも、手からすり抜けてゆく、存在しない陰に追い回されているような、そんな日々でした。


神様を知りたいと思い始めた時は、困惑と混沌の日々でした。


救われて、神様の前に正しくありたいと心から願う様になってからは、自分に与えられている神様からの恵みがはっきりと見えて、毎日感謝に満たされる日々になりました。


人生の転機を迎えてから、この一年は聖書の勉強を少しずつ始めた、ベイビーステップでした。そろそろよちよち歩きができるようになりたいものですが、、、。


クリスチャンとして生きるための鍵は、毎日、お祈りと聖書を読む事を通して、神様と対話をする事だとわかりました。世の中に当たり前にある常識がどこから来ているのか、毎日新しい発見の連続です。また、時代や国が変わっても、人間の本質は何も変わっていない、ということもよくわかります。人間のもつ罪の性質や悪というのは、不変なんですね。


これからも日々の勉強を、皆さんと少しでもシェアして行きたいので、よろしくおねがいします!

2009年2月15日

バレンタイン

バレンタインデーということで、旦那様から素敵な薔薇と、美味しいチョコレートコーティングのかかった苺をいただきました;—)単身赴任で一緒には居ないけれど、こういうプレゼントは嬉しいですね。

 

さて今日は、LIFE=命とは何かという事について考えてみましょう.

 

箴言4:20−22

MY SON, ATTEND TO MY WORDS; INCLINE THINE EAR UNTO MY SAYINGS. LET THEM NOT DEPART FROM THINE EYES; KEEP THEM IN THE MIDST OF THINE HEART. FOR THEY ARE LIFE UNTO THOSE THAT FIND THEM, AND HEALTH TO ALL THEIR FLESH.

わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。私の言う事に耳を向けよ。見失う事無く、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり、全身を健康にする。

 

4:23−24

KEEP THY HEART WITH ALL DILIGENCE; FOR OUT OF IT ARE THE ISSUES OF LIFE.PUT AWAY FROM THEE A FROWARD MOUTH,AND PERVERSE LIPS PUT FAR FROM THEE.

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。 

 

箴言 8:34−35

BLESSED IS THE MAN THAT HEARETH ME, WATCHING DAILY AT MY GATES, WAITING AT THE POSTS OF MY DORS. FOR WHOSO FINDETH ME FINDETH LIFE, AND SHALL OBTAIN FAVOUR OF THE LORD.BUT HE THAT SINNETH AGAINST ME WRONGETH HIS OWN SOUL: ALL THEY THAT HATE ME LOVE DEATH.

わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい、戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。わたしを見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができる。わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。

 

箴言には、正しい道を行くための諭しがたくさん書かれています。上にある箴言8章でいう「わたし」とは知恵の事なのですが、知恵とはイエス·キリストです。イエス·キリストを見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができる。イエス·キリストを見失う者は魂をそこなう。イエス·キリストを憎む者は死を愛する。ここはつまり、イエス·キリストによる永遠の命の事を指しています。ヨハネの書で、イエスはこう言っています。

 

ヨハネ8:51

VERILY, VERILY, I SAY UNTO YOU, IF A MAN KEEP MY SAYING, HE SHALL NEVER SEE DEATH.

はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬ事がない。

 

ヨハネ17:3

AND THIS IS LIFE ETERNAL.THAT THEY MIGHT KNOW THEE THE ONLY TRUE GOD, AND JESUS CHRIST, WHOM THOU HAST SENT.

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス·キリストを知る事です。

 

第一ヨハネ5:12

HE THAT HATH THE SON HATH LIFE; AND HE THAT HATH NOT THE SON OF GOD HATH NOT LIFE.

御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

 

ヨハネ3:36

HE THAT BELIEVETH ON THE SON HATH EVERLANSTING LIFE; AND HE THAT BELIEVETH NOT THE SON SHALL NOT SEE LIFE; BUT THE WRATH OF GOD ABIDETH ON HIM.

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。

 

神様の御言葉は、私達一人一人に命を与えます。神様の御言葉とは、イエス·キリストです。

 

ヨハネ1:1−4

IN THE BEGINNING WAS THE WORD, AND THE WORD WAS WITH GOD, AND THE WORD WAS GOD. THE SAME WAS IN THE BEGINNING WITH GOD. ALL THINGS WERE MADE BY HIM; AND WITHOUT HIM WAS NOT ANY THING MADE THAT WAS MADE. IN HIM WAS LIFE; AND THE LIFE WAS THE LIGHT OF MEN.

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

 

さて、一番最初の聖句に戻ってみて、もう一度全部読み直してみてください。

命=神様の言葉=イエス·キリスト というのがわかりましたか?

なぜ聖書を読む事が大切なのでしょうか?それは、聖書は神様の御言葉=私達の日々の糧となるからです。一日短い聖句たった一つでも、毎日聖書を読んで、神様からの知恵を学んでいきましょう!

2009年2月9日

LAST DAY

終わりの日は近い


今日は、またまたジェリー ギブソン牧師のお話から。まずは第一ペトロの4章1から11節を読んでみて下さい。

イエス様はいつ、この地上にお戻りになるかわかりません。この聖句で、ペトロはこの終わりの日が近づいた今、私達は何をするべきか、という神様からの指令を書いています。それは、救われている人間達を、イエス降臨のその瞬間のために準備し、また励ますため。そして、救われていない者たちを救うためです。

 

第一ペトロ4章1−3節

FORASMUCH THEN AS CHRIST HATH SUFFERED FOR US IN THE FLESH, ARM YOURSELVES LIKEWISE WITH THE SAME MIND: FOR HE THAT HATH SUFFERED IN THE FLESH HATH CEASED FROM SIN; THAT HE NO LONGER SHOULD LIVE THE REST OF HIS TIME IN THE FLESH TO THE LUSTS OF MEN, BUT TO THE WILL OF GOD. FOR THE TIME PAST OF OUR LIFE MAY SUFFICE US TO HAVE WROUGHT THE WILL OF THE GENTILES, WHEN WE WALKED IN LASCIVIOUSNESS, LUSTS, EXCESS OF WINE, REVELLINGS, BANQUETINGS, AND ABOMINABLE IDOLATRIES:

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく、神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きる様になるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで充分です。

 

4章4−6節

WHEREIN THEY THINK IT STRANGE THAT YE RUN NOT WITH THEM TO THE SAME EXCESS OF RIOT, SPEAKING EVIL OF YOU; WHO SHALL GIVE ACCOUNT TO HIM THAT IS READY TO JUDGE THE QUICK AND THE DEAD. FOR FOR THIS CAUSE WAS THE GOSPEL PREACHED ALSO TO THEM THAT ARE DEAD, THAT THEY MIGHT BE JUDGED ACCORDING TO MEN IN THE FLESH, BUT LIVE ACCORDING TO GOD IN THE SPIRIT.

あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者を裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きる様になるためなのです。

 

4章7−11節

BUT THE END OF ALL THINGS IS AT HAND: BE YE THEREFORE SOBER, AND WATCH UNTO PRAYER. AND ABOVE ALL THINGS HAVE FERVANT CHARITY AMONG YOURSELVES: FOR CHARITY SHALL COVER THE MULTITUDE OF SINS. USE HOSPITALITY ONE TO ANOTHER WITHOUT GRUDGING. AS EVERY MAN HATH RECEIVED GIFT, EVEN SO MINISTER THE SAME ONE TO ANOTHER, AS GOOD STEWARDS OF THE MANIFOLD GRACE OF GOD. IF ANYMAN SPEAK, LET HIM SPEAK AS THE ORACLES OF GOD;IF ANY MAN MINISTER, LET HIM DO IT AS OF THE ABILITY WHICH GOD GIVETH: THAT GOD IN ALL THINGS MAY BE GLORIFIED THROUGH JESUS CHRIST, TO WHOM BE PRAISE AND DOMINION FOR EVER AND EVER. AMEN.

万物の終わりが迫っていますだから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心をこめて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語るものは、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス·キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。アーメン。

 

ここには、私達が生きて行く上で非常に大切な心構えが書かれています。まず、第一に、BE SOBER MINDED,思慮深く振る舞うこと、です。これはつまり、はっきりとした頭できちんと考え、すべての事物に対して正しい態度で行動しなさい、ということです。現代は、様々な「信仰」で溢れています。そして、たくさんの嘘の教えが溢れています。私達は一つ一つをきちんと目を開いて吟味し、決して悪魔の嘘にだまされないようにしないといけません。ネガティブ思考というものもまた、悪魔から来るものです。何かひとつマイナス方向に考えだして、どんどん一人で暗く悩んで、ノイローゼ風になってしまう人が大勢います。しかし、イエス様の教えをしっかりと心に刻み、神様の助けを認識し、はっきりとした頭で現実的に直面している問題に取り組めば、そういう事にはなりません。

 

また、クリスチャンである人達は、その責任を果たしながら生きなければなりません。私達がこの世で生きているうちに言った言葉、考えた事、行動、全ては私達が死んだ後神様の御前で一つ一つ明らかにされます。クリスチャンとして恥じる事の無い生き方をする事ができていますか?

 

では、クリスチャンの生き方として大切な事とはなんでしょうか?

 

1、聖書を読む事

マタイ4章4節 

MAN SHALL NOT LIVE BY BREAD ALONE, BUT BY EVERY WORD THAT PROCEEDETH OUT OF THE MOUTH OF GOD.

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。

 

2、かかさず祈る事

第一テサロニケ5章17節

PRAY WITHOUT CEASING.

絶えず祈りなさい。

 

3、教会に通う事

ヘブル書10章25節

NOT FORSAKING THE ASSEMBLING OF OURSELVES TOGETHER, AS THE MANNER OF SOME IS; BUT EXHORTING ONE ANOTHER: AND SO MUCH THE MORE, AS YE SEE THE DAY APPROACHING.

ある人達の習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。

 

4、福音を伝える事

箴言11章30節

HE THAT WINNETH SOULS IS WISE.

知恵ある人は多くの魂をとらえる。

 

5、神様のために生きる事

神様の与えて下さった才能や特技を、神様の仕事のために使っていますか?

 

もしかしたら、今日がこの地球上で生きる最後の日になるかもしれません。まだ救われていない人は、イエス·キリストに救いの恵みをお願いしましょう。救われている人達は、クリスチャンとして恥じない生き方ができるように頑張りましょう。