2009年1月28日

STRENGTH

今朝、聖書を読んでいて、日々の生きる力は神様からいただくものである、とつくづく感動した聖句があります。毎日、あなたは何を心の支えにしていますか?私自身、救われる前は心の支えとか、そんなことすら考えなかった気がします。常に時間に追われ、他人との競争に急かされ、ラッシュの電車やバスで余裕のない空間に押しつぶされ、ひたすら走っているだけの毎日に、ともかく目の前の物事を消化していくのに必死でした。その間、私の心は常に何を追っているのか、追われているのかわからない空虚感や、焦り、そして恐怖でいっぱいでした。心はきちんと呼吸できておらず、暗い妄想や脱力感におそわれることもありました。

しかし、救われてからしばらくの間相変わらずただ走るだけの毎日を送っていましたが、心の支えができたのです。それは、言葉でどういっていいのか、たとえようのない力です。常にあった心の怯えや恐怖が、安心に変わりました。そして、夜寝る時も、明日がこなければいいのに、などと思うことなく、今日も生きていられた喜びを感謝できるようになりました。それは、イエス様の救いの御手を信じ、その手に引かれて道を進むことに決めたからです。この聖句は、救われた人間が、この世のどんな困難にあっても神様からいただく安心は変わることがない、ということがよくわかる句です。堪能して下さい!


詩編27:1

THE LORD IS MY LIGHT AND MY SALVATION; WHOM SHALL I FEAR? THE LORD IS THE STRENGTH OF MY LIFE; OF WHOM SHALL I BE AFRAID?

主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。主は私の命の砦 私は誰の前におののくことがあろう


27:4

ONE THING HAVE I DESIRED OF THE LORD, THAT WILL I SEEK AFTER; THAT I MAY DWELL IN THE HOUSE OF THE LORD ALL THE DAYS OF MY LIFE, TO BEHOLD THE BEAUTY OF THE LORD, AND TO ENQUIRE IN HIS TEMPLE.

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主をあおぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。


27:5

FOR IN THE TIME OF TROUBLE HE SHALL HIDE ME IN HIS PAVILLION: IN THE SECRET OF HIS TABERNACLE SHALL HE HIDE ME; HE SALL SET ME UP UPON A ROCK.

災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ 幕屋の奥深くに隠して下さる。岩の上に立たせて下さる。


27:11

TEACH ME THY WAY, O LORD, AND LEAD ME IN A PLAIN PATH, BECAUSE OF MINE ENEMIES.

主よ、あなたの道を私に教え 平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。


27:13

I HAD FAINTED, UNLESS I HAD BELIEVED TO SEE THE GOODNESS OF THE LORD IN THE LAND OF THE LIVING.

命あるものの地で主の恵みを見る事を信じなければ、私は倒れていたことだろう。


27:14

WAIT ON THE LORD: BE OF GOOD COURAGE, AND HE SHALL STRENGTHEN THINE HEART: WAIT, I SAY, ON THE LORD.

主を待ち望め 雄々しくあれ、主が心を強くしてくれる。主を待ち望め。

2009年1月27日

その日

'Twas the Night Jesus Came


'Twas the night Jesus came and all through the house

Not a person was praying, not one in the house.

The Bibles were left on the shelf without care,

For no one thought that Jesus would come there.

The children were dressing to crawl into bed,

Not once ever kneeling or bowing a head.

And mom in her rocker with baby in her lap

Was watching the Late Show while I took a nap.


When out of the east there rose such a clatter,

I sprang to my feet to see what was the matter.

Away to the window I flew like a flash

Tore open the shutters and lifted the sash!

When what to my wondering eyes should appear

But angels proclaiming that Jesus was here!

The light of His face made me cover my head-

It was Jesus returning, just as He said.

And though I possessed worldly wisdom and wealth,

I cried when I saw Him in spite of myself.

In the Book of Life which He held in His hand

Was written the name of every saved man.

He spoke not a word as He searched for my name;

When He said " It's not here" my head hung in shame.


The people whose names had been written with love

He gathered to take to His father above.

With those who were ready He rose without a sound

While all the rest were left standing around.

I fell to my knees, but it was too late;

I had waited too long and thus sealed my fate.

I stood and I cried as they rose out of sight;

Oh, if only I'd known that this was the night.


In the words of this poem the meaning is clear;

The coming of Jesus is now drawing near.

There's only one life and when comes the last call

We'll find that the Bible was true after all.


この詩は、Gethesemane Baptist Churchのトラクトからのご紹介。意訳してみましょう。


それはイエスが再臨した夜のことだ

家の中では誰一人祈っている者はいなかった。

誰一人イエスが戻ってくるとは思わなかったので

聖書は本棚に置き去りにされていた。

子供達はベッドに入る支度をし

一度も膝をついてお祈りしたこともなく

私が宵寝をする間、妻は赤ん坊を抱いて

ロッキングチェアでテレビを見ていた


東の空からその大きな雷鳴が轟いたとき

私は何事かと飛び上がった

急いで窓に向かうと窓を開けた。

そこには驚いた事に天使たちがイエスの再臨を告げていた!

彼の顔の輝く光に私は頭をおおった

それはイエスの再臨だった、彼が言ったその通りの。

私はこの世の知恵も富も持っていたけれど、

彼を見た瞬間それも忘れて思わず叫んだ。

彼の持つ命の書には、救われた人間の名前がすべて書かれている。

彼は何も言わず、私の名前を探した。

「ここにお前の名はない」そう彼が言ったとき、私はがっくりと首をうなだれた。


イエスは愛によって命の書に名が書かれている者達を

集めて天の父なる神様のもとへ連れ去った。

そして準備のできていた者達は物音立てず空へとのぼり

その他の者達は地上に取り残された。

私は膝をついて祈ろうとしたが、すでに遅かった。

私はいつまでも待ちすぎて、自分の運命を定めてしまったのだ。

彼らが天へと上って行くのを眺め、私は立ちすくんで泣いた。

ああ、もしこれが今夜おこることだとさえ、わかっていれば!


この詩に書かれた意味は明らか

イエス再臨の時はすぐそこに来ている

この命はたった一つ、そして最後の時がくるとき

結局、聖書の言葉は本当だったと、私達は知るだろう。


私はこの詩を読んで、ドキッとしました。救われている人も、救われていない人も、聖書のイエス再臨の話は聞いたことがあると思います。聖書には、嘘は一つも書かれていません。ということは、イエスは本当に戻ってくるのです。その時がいつかは誰もわかりません。ということは、今日かもしれないし、明日かもしれない。私達がまったく予想していなかった瞬間に、それはおこるのです。


第一テサロニケ4:16、17

For the Lord himself shall descend from heaven with a shout, with the voice of the archangel, and with the trump of God: and the dead in Christ shall rise first: Then we which are alive and remain shall e caught up together with them in the clouds, to meet the Lord in the air: and so shall we ever be with the Lord.

号令の合図がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降ってこられます。すると、キリストに結ばれて死んだ人達が、まず最初に復活し、それから、私達生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私達はいつまでも主と共にいることになります。

第一コリント15:52

In a moment, in the twinkling of an eye, at the last trump: for the trumpet shall sound, and the dead shall be raised incorruptible, and we shall be changed.

最後のラッパが鳴るとともに、たちまち一瞬のうちに、死者は復活して朽ちない者とされ、私達は変えられます。


マタイ24:36

But of that day and hour knoweth no man, no, not the angels of heaven, but my Father only.

その日、その時はだれも知らない。天使達も知らない。ただ、父だけがご存知である。


この詩にあるように、その日が突然来たときに、後悔しないようにしたいですね。

まだ救われていない人は、考えてみて下さい。聖書にはこうあります。


ローマ10:9

That if thou shalt confess with thy mouth the Lord Jesus, and shalt believe in thine heart that God hath raised him from the dead, thou shalt be saved.

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われる。


使徒言行録4:12

Neither is there salvation in any other: for there is none other name under heaven given among men, whereby we must be saved.

ほかの誰によっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

2009年1月21日

大統領就任

第一ペテロ 5:7

CASTING ALL YOUR CARE UPON HIM; FOR HE CARETH FOR YOU

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

 

今回は日曜日にジェリー·ギブソン牧師がお話してくれた内容から。

救われている人間にとって、「悩む事、心配する事」はたちの悪い病気のようなもので、その特効薬は「信じる事」です。

 

聖書には神様が私達ひとり一人の願いに答えてくださると、繰り返し約束されています。そして、心の平和、ゆとり、未来への希望、行くべき道すじを与えてくださるのです。

 

マタイ7:7

ASK, AND IT SHALL BE GIVEN YOU; SEEK, AND YE SHALL FIND; KNOCK, AND IT SHALL BE OPENED UNTO YOU:

求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。

 

私達は、祈りが答えられるまで、忍耐強くお祈りする必要があります。あきらめず、祈り続けること。それが大切です。

 

ヤコブ4:2−3

YE HAVE NOT, BECAUSE YE ASK NOT. YE ASK, AND RECEIVE NOT, BECAUSE YE ASL AMISS THAT YE MAY CONSUME IT UPON YOUR LUSTS.

得られないのは、願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

 

たまに、祈りとはその内容が何であれ願い届けられると勘違いしている人がいますが、たとえば、隣の家の人が死ねば良いのに、なんて祈ったら、それは祈りじゃなくて、呪いですよね。また、自分が私欲を肥やすために億万長者になりたい、なんて言っても、神様は答えてくれません。なぜならその祈りの動機は、神様に仕えているのではなく、富に仕えているものだからです。

 

マタイ6章では、私達は毎日に必要な糧をどのように神様にお祈りすべきか、というお祈りの仕方をイエス様が群衆に教えているところが書かれています。それは、毎日の私達の罪を許し、今日生きるためのパンを与えて下さい、という非常に謙遜なお祈りです。そして、神様のご意志がこの地球上でなされます様にというのが祈りの動機です。

 

救われている信者の人間は、病気の人や助けが必要な人、救われていない人、家族、国、そして国のリーダーたちのために毎日お祈りをするべきなのです。

 

フィリピ4:6−7

BE CAREFUL FOR NOTHING; BUT IN EVERY THING BY PRAYER AND SUPPLICATION WITH THANKSGIVING LET YOUR REQUESTS BE MADE KNOWN UNTO GOD.AND THE PEACE OF GOD, WHICH PASSETH ALL UNDERSTANDING, SHALL KEEP YOUR HEARTS AND MINDS THROUGH CHRIST JESUS.

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト·イエスによって守るでしょう。

 

まだ救われていない人は、イエス様のもとにその思い煩いを打ち明けましょう。その平和は、あらゆる人知を超える、神の平和です。

 

マタイ 11:28-30

COME UNTO ME, ALL YE THAT LABOUR AND ARE HEAVY LADEN, AND I WILL GIVE YOU REST.

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 

TAKE MY YOKE UPON YOU, AND LEARN OF ME; FOR I AM MEEK AND LOWLY IN HEART; AND YE SHALL FIND REST UNTO YOUR SOULS.

私は柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

 

FOR MY YOKE IS EASY AND MY BURDEN IS LIGHT

私の軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

今日、アメリカの新大統領が就任しました。私達クリスチャンは、各国の大統領や首相達が、まず救われる様に祈りましょう。唯一正しい神を、きちんと見つめることができるように。

 

2009年1月15日

価値観

私の知り合いで、親がクリスチャンなんですが、子供はまったくアンチ•キリストという人がいます。その人は小さな頃から教会で日曜学校などに通って育ち、クリスチャン学校を卒業し、独り立ちしたとたん、アンダーグランドのネオパンクやクラブミュージックにはまり、アルコールや麻薬を常用し、体中にタトゥーがあったりします。

私は、自分自身が神様を知らずに育ち、世の中の汚さみたいなのが当たり前だったので、そこから精神的に抜け出せた事と、やっと見つけられた本当の心の平和に対して喜びに溢れていますが、その人は、様々な聖書の話や教えを知ってはいても、むしろ世の中の忙しなさや貧困、渇いた自分などを愛しているという幻覚にとらわれているのです。あれは不思議なものですが、なんで人間って退廃的な事物に憧れることがあるのでしょうか。特にすべて持っている人達がわざと退廃的生活に自分をおとしめたりして喜んでいる。まあ私の場合、そういう退廃的生活を描いた小説を読んだり映画を見たりして、ティーンエイジのころ憧れたりしていたので、そういった責任感を放棄した生活というものが格好よく見えたりするのでしょう。でも、本気で麻薬とかアルコールにはまってしまっている人達っていうのは、水よりもヴォッカの方が安く買えたり、貧しさを紛らわすために政府が麻薬を住民に配ったりしている貧困の国々で苦しんでいる人々で。普通に暖かい家庭や教育が保てるのに、それを捨てて破滅の世界に憧れて自分を滅ぼして行くような生き方は、愚かだと思いますね。はっきり言って。高価な贈り物を泥沼に投げ捨てているようなものです。

 

神様への信仰は、個人の意思決定にまかされています。親がナントカ宗教だから、、、というのはどうでも良い事なのです。今たとえあなたが何教徒だろうと、天国へいくための道しるべがその宗教にはっきりとないのなら、自分の永遠の魂の行き先を心配することをお勧めします。

 

この間牧師さんがこういっていました。「宗教」と「イエスの救済」との違いははっきりしている。すべての「宗教(ある宗派のキリスト教も含めて)」は人間が神に働きかけるが、「イエスの救済を信じるクリスチャニティ」は唯一神様から人間へと働きかけてくれたものだ。人間は、いくら神様に届こうとしても、届けないのです。だから、神様はその手をイエス•キリストをもって哀れな人間達に差し伸べて下さったんですね。

 

第一コリント 3章18−21節

LET NO MAN DECEIVE HIMSELF. IF ANY MAN AMONG YOU SEEMETH TO BE WISE IN THIS WORLD, LET HIM BECOME A FOOL, THAT HE MAY BE WISE.

だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

 

FOR THE WISDOM OF THIS WORLD IS FOOLISHNESS WITH GOD. FOR IT IS WRITTEN, HE TAKETH THE WISE IN THEIR OWN CRAFTINESS

この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられると書いてあります

 

AND AGAIN, THE LORD KNOWETH THE THOUGHTS OF THE WISE, THAT THEY ARE VAIN.

また、「主は知っておられる、知恵のある者たちの議論がむなしいことを」とも書いてあります。

 

THEREFORE LET NO MAN GLORY IN MEN.

ですから、誰も人間を誇ってはなりません。

 

神様は人間のもつ自分が最も優れていると思うプライドを憎まれます。彼らは、創造主である神様の存在を無視し、自らがすべてを掌握していると思い込んでいるからです。

 

箴言6:16−19

THESE SIX THINGS DOTH THE LORD HATE; YEA, SEVEN ARE AN ABOMINATION UNTO HIM: A PROUD LOOK, A LYING TONGUE, AND HANDS THAT SHED INNOCENT BLOOD, AN HEART THAT DEVSETH WICKED IMAGINATIONS, FEET THAT BE SWIFT IN RUNNING TO MISCHIEF, A FALSE WITNESS THAT SPEAKETH LIES, AND HE THAT SOWETH DISCORD AMONG BRETHREN

主の憎まれるものが6つある。心からいとわれるものが七つある。おごり高ぶる目、嘘をつく舌、罪もない人の血を流す手、悪巧みを耕す心、悪事へと急いで走る足、欺いて嘘をつく証人、兄弟の間にいさかいを起こさせる者

 

私は、冒頭に書いた知り合いの事が最近頭から離れません。アメリカとかだと特に、親がクリスチャンで幼少から教会で育ったため、小さい頃イエス様に救済を求め、救われたものの、成長過程で聖書を自分の糧として読まなかったり、その教えよりもテレビや小説などの価値観を重んじたりして光としてではなく、暗闇の中を他の救われていない人達と一緒に歩んでいる人が多いです。自分も親として、聖書にあるよい価値観をどうやって子供に伝えていけるか、毎日神様に助けて下さいとお祈りしています。世界中の当たり前な道徳の知識って、本当に聖書から来てるんだなあと、読めば読む程思います。とくに、箴言を読んでみて下さい、昔小学校で習った道徳がたくさん出てきますよ。


 

2009年1月11日

宝物

世の中不況なようで、こちらアメリカでも人材削減とかリストラがすごい勢いでおこっています。中堅で頑張っていたスーパーがつぶれたり、知り合いがリストラされたり。今日大金持ちだった人が、明日は乞食の世界ですね。

さて、聖書は私達にそんな世の中で自分の富をどうすればいいと教えているのでしょうか?イエス様による山上の説教の続きをみてみましょう。

 

マタイ6:19

LAY NOT UP FOR YOURSELVES TREASURES UPON EARTH, WHERE MOTH AND RUST DOTH CORRUPT, AND WHERE THIEVES BREAK THROUGH AND STEAL:

あなたがたは地上に富をつんではならない。そこでは、虫が食ったり、錆び付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。


なぜ、地上に富をつむな、といっているのでしょうか?地上の富とは何でしょうか。それは、金銀、家、車、高価な洋服、宝飾品、そういった「物質」のことです。この世に存在する「物質」は、いずれ朽ち果てる性質を持っています。虫に食われたり、さびたり、そして盗まれてなくなったり。つまり、永遠に手元に残るものは、何ひとつないのです。

 

マタイ6:20

BUT LAY UP FOR YOURSELVES TREASURES IN HEAVEN, WHERE NIETHER MOTH NOR RUST DOTH CORRUPT, AND WHERE THIEVES DO NOT BREAK THROUGH NOR STEAL

富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、錆び付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

 

では、富を天に積む、とはどういうことでしょう?天の富とは世の中の物質とは異なり、SPIRITUAL TREASUREつまり、自分の精神的中心がどこにあるか、ということです。あなたは何を最も大切にして生きていますか?

 

マタイ6:21

FOR WHERE YOUR TREASURE IS, THERE WILL YOUR HEART BE ALSO.

あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。

 

もしもあなたが、お金や宝飾品を第一優先にして生きているのであれば、あなたの精神もそれに集中しています。もしあなたがこの世の物質よりも、天に目を向け,魂の永遠の行き場に心を向けているのであれば、それはあなたは天に富を積んでいるということです。

 

マタイ6:24

NO MAN CAN SERVE TWO MASTERS: FOR EITHER HE WILL HATE THE ONE, AND LOVE THE OTHER; OR ELSE HE WILL HOLD TO THE ONE, AND DESPISE THE OTHER. YE CANNNOT SERVE GOD AND MAMMON.

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

 

ここで私達は選択に迫られます。この世の金銀財宝の奴隷として仕えるか、神様に仕えるか。そう聞くと、この世でお金儲けをしなかったら生きていけないじゃないか!と思うでしょう。神様は、この世での富というものは、神様に私達が仕えることで、神様がお与えくださると約束しています。私達が金銀財宝のみに目を向けて生きていると、それは神様のお与えになる恵みを無視し、冒涜していることと同じです。

 

マタイ6:25−32

自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし言っておく、栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つ程にも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者達よ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。

 

マタイ6:33

SEEK YE FIRST THE KINGDOM OF GOD, AND HIS RIGHTEOUSNESS; AND ALL THESE THINGS SHALL BE ADDED UNTO YOU.

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 

天にいます神様は、私達人間の一人一人が何を必要としているかすべてご存知です。私達が、富に仕えるのではなく、心の中心を神様の御国とその正しさに置くならば、私達がこの世で生きるために必要なものは、すべて与えてくださいます。どうやって、神の国と神の義を求めればいいのでしょうか?まずは、自分の目をこの世の物質たちから天へ、自分の魂の永遠の行き先へ向けましょう。人間の命は短く、この世での肉体の人生は煙のようなものです。しかし、魂は永遠に天国または地獄で過ごすことになります。あなたは、神様の義を求めて、自分の永遠の行き先を地獄から天国へと変更しましたか?それとも、この世の富に目隠しをされて、天への道が見えていないでしょうか?私達の生きるための日々の糧は、すべて私達を創られた天の父である神様から与えられるものです。その恩恵にあずかるために、天の御子であるイエス•キリストが人間の罪を取払い、神様へとつづく道へと案内してくださるのです。

 

マタイ7:7

ASK, AND IT SHALL BE GIVEN YOU; SEEK, AND YE SHALL FIND; KNOCK, AND IT SHALL BE OPENED UNTO YOU:

求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 

あなたは、天国への道を求めていますか?聖書は約束してくれています。探すものには、その門は必ず開かれると。

 

ヨハネ14:6

JESUS SAITH UNTO HIM, I AM THE WAY, THE TRUTH, AND THE LIFE: NO MAN COMETH UNTO THE FATHER BUT BY ME.

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父の元に行くことができない」

 

そしてその道とはイエス様なんですね。今日、あなたはいずれ朽ち果てるこの世の富と、天の永遠の財宝と、どちらに目を向けますか?まだイエス様の魂の救済を信じていない人は、信じることが第一歩です。心から、神様を求める人には、神様は必ずその姿を示してくださるからです。

 

申命記4:29

IF FROM THENCE THOU SHALT SEEK THE LORD THY GOD, THOUSHALT FIND HIM, IF THOU SEEK HIM WITH ALL THY HEART AND WITH ALL THY SOUL.

心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神を見つけることができるであろう。

2009年1月6日

Heaven or Hell

今日は、Good News Publishersのトラクトを抜粋して訳してみようかと思います。天国と地獄についてのアイデアがとてもわかりやすく、簡潔に書いてあるとおもうので。そのままだと情報不足のところは追記もしましたが。地獄っていうと、修学旅行とかで見に行った「地獄絵図」の巻物なんか思い出しますね。あれは見ててなんておどろおどろしい嫌なところなんだ、と思った記憶がありますね。まさに阿鼻叫喚。

天国

天国とは、肉体を離れた魂がふらふらとしている、幽玄で霧のかかった場所ではありません。天国とは、この地球と同じ様に、現実のものです。イエス様は弟子達にいいました。"I go to prepare a place for you"私はあなた達のために場所を用意しに行く[ヨハネ14:2]パウロは、クリスチャン達は、そこでは新しい朽ちることのない体を持つことになると教えました。

また天国とは退屈な場所ではありません。地上で私達の喜びを奪う自分勝手さ、憎しみ、死、それらはもうありません。またそこは、苦しみのない場所です。[ヨハネの黙示録21:1−7]わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下ってくるのをみた。そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人とともに住み、人は神の民となる、神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

あなたは天国へ行きますか?

 イエスは言っています。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」[ヨハネ14:6,5:24]

地獄

 イエスと、新約聖書の著者達は、地獄とは現実のもので、非常に恐ろしく、さけるべきものであると書いています。永遠の暗闇と、火の池の描写は、私達を救うために死んだイエスの言葉です。イエスは、最後の審判である者は永遠の刑罰に、あるものは永遠の命へと進むといっています。「人の子(イエス)は栄光に輝いて天使達を皆従えてくるとき、その栄光の座につく。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊とヤギを分ける様に彼らを選り分ける。」「こうしてこの者どもは永遠の刑罰を受け、正しい人達は永遠の命にあずかることになる。」[マタイ25:31,46]

地獄の、最も恐ろしいこととは、それは魂が永遠に神様から離れるということです。つまり、永遠に神様からくるものである愛,喜び、平和から離れ、永遠の後悔とその自覚に苛まれるということです。「臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべて嘘を言う者、このような者達にたいする報いは、火と硫黄の燃える池である。それが第二の死である。」[黙示録21:8]

あなたは地獄へ行きますか?

「人の子(イエス)は天使達を遣わし、つまずきとなるものすべてと、不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」[マタイ13:41,42]「そして、この者どもは昼も夜も世世限りなく責めさいなまれる。[黙示録20:10]

 では、地獄にいく人とは誰のことでしょうか?それは、神様の定めた十戒を破った人です。つまり、

1、神様を唯一の神と信じない人

2、偶像崇拝する人(木像、鉄像、自然、太陽などなど)

3、神の名をみだらに取り上げる人(よく映画とかで外国人がOH MY GOD! とかJESUS!!とかを「くそっ」とか「しまった!」とかの意味につかってたりするアレです。)

4、安息日を守らない人

5、父母を敬わない人

6、殺人するひと

7、姦淫する人

8、盗みをする人

9、嘘をつく人

10、隣人の家をむさぼる人

ちなみに、仏教を信じていらっしゃる皆さんも、同じです。仏教も細かい違いは宗派によっていろいろあると思いますが、世界の宗教ってけっこう基本は一緒で、仏教の阿鼻地獄に行く者っていうのは、殺生・盗み・邪淫・飲酒・妄語・邪見・「尼僧への強姦」・「仏教に対する不信心、特に『五逆罪の1つを犯す』、さらに『正法を誹謗する』」者だそうです。(ウィキペディア参照)

さて、あなたはこれらがすべて守れているでしょうか?それは罪をもった人間には実は不可能なんです。聖書にも、「正しい者はいない。一人もいない。」[ローマ3:10]と書いてある通りです。

では、天国にいかれる「正しい人」っていうのは、誰なのでしょうか?

それは、自分の罪を、イエス様に肩代わりしてくれるようにお願いして、罪を洗い流してもらった人です。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト•イエスのあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」[ローマ3:23,24]「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちの為に死んでくださったことにより、神は私達に対する愛を示されました」[ローマ5:8]「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト•イエスによる永遠の命なのです。」[ローマ6:23]「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」[マルコ8:36]「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角へ向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」[イザヤ53:6]「わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」[ローマ5:9,10]「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」[ローマ10:9,10]

十字架の救いを伝えることは、滅んで行くものたちにとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。[第一コリント1:18]


さて、天国と地獄、どちらを選びますか?選択はあなた次第なのですよ!

 

2009年1月3日

New Year's Resolution


THIS IS THE DAY WHICH THE LORD HATH MADE; WE WILL REJOICE AND BE GLAD IN IT . Psalm 118:24

今日こそ主が御業でお造りになられた日、今日を喜び祝い、喜び踊ろう。詩編118章24節

明けましておめでとうございます。今年も皆さん一年の目標とかたてたりしている頃でしょうか。アメリカにいると、クリスマスがメインなので、まったく賀正!!っていう感じがありません。家でひたすら食っちゃ寝をしながら、年賀状かきに追われたり、新年セールにいったりしていたあの「お正月」感が懐かしいです。今日はここバージニアでは雪が静かに降っていて、とっても寒いですよ。

私は最近、マタイの福音書の5、6、7章にある、イエス様の山上での説教を少しずつ、寝る前に毎日繰り返して読んでいます。ここには、神様のおっしゃる人生で大切なことがたくさん書いてあるんです。「今年の目標」をたてるうえで、とてもよい参考になると思うので、ぜひ心に忍ばせておいてください。

5章3節

BLESSED ARE THE POOR IN SPIRIT: FOR THEIRS IS THE KINGDOM OF HEAVEN.

心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人達のものである。

ここでいう「心の貧しい」というのは、謙虚さのことを指します。聖書はいろいろな箇所で、プライドや威張った心を持っている人は天国への道は見えないと書いてあります。人間は、自分の無力さを実感し、初めて天に目を向けるものです。そして、自己過信を捨て、神の全能さに頼る者だけが天の国へ行くことができるのです。

5章4節

BLESSED ARE THEY THAT MOURN: FOR THEY SHALL BE COMFORTED

悲しむ人々は幸いである。その人達は慰められる。

悲しむ、とは何を悲しむのでしょうか?それは、この世での心の痛みだけではなく、救われていない人々の行く末を思うイエスの悲しみを指します。そして、この悲しみは、イエス様が地球に君臨するために戻って来たときに、慰められるのです。

5章5節

BLESSED ARE THE MEEK: FOR THEY SHALL INHERIT THE EARTH

柔和な人々は幸いである。その人達は地を受け継ぐ。

自分の態度って、よく見てみたことありますか?私達は人の態度が悪いとかすぐ他人に評価を下しますが、自分はどうでしょうか?他人に失礼だったり、とげとげしたり、すぐに怒ったりしていませんか?聖書はMEEKであること、が大切であるといっています。それは、柔和な返事、辛抱強さ、親切さなどを指します。これは、イエス様の救いを受けたときに、イエス様を通して人間が持つことのできる性質です。

5章6節 

BLESSED ARE THEY WHICH DO HUNGER AND THIRST AFTER RIGHTEOUSNESS: FOR THEY SHALL BE FILLED

義に飢え渇く人々は幸いである。その人達は満たされる。

義に飢え渇く、とは、神様のお定めになった正しさや清らかさを愛し、自分の生活や世の中にそれを求める人のことです。イエス様が地球に戻られる時、汚い罪に満たされた地球は神様の高いモラルと清らかさに満たされます。そのため、救われて、神様の義を生活の中に追い求める人は幸いだというのです。

5章7節

BLESSED ARE THEY MERCIFUL: FOR THEY SHALL OBTAIN MERCY.

憐れみ深い人々は幸いである。その人達は、憐れみを受ける。

わらしべ長者の話じゃないですが、他人に憐れみを施す人に、神様は憐れみを施されます。これは、イエス様が十字架で死に人間の罪を背負って下さった限りない憐れみを模範として、少しでもそれに近づけるように他人を助けたりすることが大事だということですね。

5章8節

BLESSED ARE THE PURE IN HEART: FOR THEY SHALL SEE GOD.

心の清い人々は幸いである。その人達は神を見る.

どうしたら、心を清く保てるのでしょうか?それは毎日神様の御言葉を読み、神様と共に歩むことから始まります。私達の心は、常に汚い考えや疑いなどで満たされています。聖書からの御言葉は、私達の一歩一歩を清く正しい方へ導いてくれます。

5章9節

BLESSED ARE THE PEACEMAKERS: FOR THEY SHALL BE CALLLED THE CHILDREN OF GOD

平和を実現する人々は、幸いである。その人達は神の子と呼ばれる。

「平和を実現する人」とは、単に平和を愛する、ということとは違います。争いを積極的に解決し、平和をもたらす人のことです。ヒッピーの「愛」とか[平和]とかいうサボタージュとはまったく違う質のものですので注意しましょう!!

私もいよいよクリスチャンになって6年目です。今年はより聖書を読んで、実際に自分の生活をよいクリスチャンの見本となれるようにがんばりたいですね。口で言うのは簡単ですが、清く正しく心を保ったり、他人の手助けになれるようになったり、何よりも毎日欠かさず聖書を読んで、より多くの人にわかりやすく、救われていることの喜びや、毎日のチャレンジなどを伝えていきたいです。

では、そういうことで、今年もよろしくお願いいたします!!皆さんにとって、よい一年になりますように!