2009年7月28日

ご無沙汰

おひさしぶりです。また引っ越ししていました。といっても、再びオクラホマの基地からバージニアの実家に戻って来ただけなのですが。ついに夫が軍でのお仕事が終わったので、本格的に教会でのお仕事&神学校に行く事になりました。カリフォルニアに行く予定だったのですが、いろいろな導きによって、実家のホームチャーチを手伝いながら、車で一時間半くらいのところにある小さな神学校に行く事にしたようです。ということで、ただいままた夫の実家でおじいちゃん、おばあちゃんに息子ともども甘やかされながら生活しています。新居も探しているところです。
そんなわけで、ばたばたしていたので更新が滞ってしまい失礼しました。また少しずつ書いていきますので、今後もよろしくおねがいします!

2009年7月2日

よい読み方

ヨハネの福音書15章1−4節
I AM THE TRUE VINE, AND MY FATHER IS THE HUSBANDMAN. EVERY BRANCH IN ME THAT BEARETH NOT FRUIT HE TAKETH AWAY: AND EVERY BRANCH THAT BEARETH FRUIT, HE PURGETH IT, THAT IT MAY BRING FORTH MORE FRUIT. NOW YE ARE CLEAN THROUGH THE WORD WHICH I HAVE SPOKEN UNTO YOU. ABIDE IN ME, AND I IN YOU. AS THE BRANCH CANNOT BEAR FRUIT OF ITSELF, EXCEPT IT ABIDE IN THE VINE; NO MORE CAN YE, EXCEPT YE ABIDE IN ME.
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたは、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない

今月は、ヨハネの15章を旦那様と暗記することにしました。いまのところ3節まで覚えました。ところで、こうやって毎日一節ずつ、少しずつ覚えていくと、じっくり聖句の意味を調べたり、考えたりしながら学ぶ事ができるのでとてもよいです。ヨハネの15章は、イエス様が使徒達にぶどうの木のたとえを用いて教えているところです。J. Vernon McGee による、Thru the bibleという解説書によると、このシーンでは、夜イエス様と使徒たちが月明かりの中、ぶどう畑を歩いていて教えているところが想像される、と書いてあります。具体的にシーンを頭に思い浮かべると、美しい風景です。

ここでいう農夫である父とは、天の神様のこと。まことのぶどうの木とは、イエス様御自身を指します。枝とは、イエス様を信じている私達のことで、細い枝はぶどうの木自体につながっていなければ、実を結ぶ事はできません。イエス様に繋がるには、まずイエス様の言葉を信じ、罪から洗い流され、救われなければなりません。ここには、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とありますので、この話は救われていて、イエス様につながっている信者たちに向けられているものでしょう。細く弱々しい枝である私達は、たとえ救われても、日々「まことのぶどうの木」であるイエス様につながっていなければ、実を結ぶことはできません。では、どうしたらイエス様につながっていることができるのでしょうか?それは、日々の聖書を読む事と、お祈りをすることです。聖書を読む事は、ないがしろにされがちですが、実は一番大切な事なのです。なぜなら、私達は聖書の教えを通して、学び、イエス様の木に結ばれていることができるからです。私自身、聖書を自分できちんと読む様になってから、キリスト教の本当の教えを理解するようになりました。また、他の宗教との絶対的違いや、神様からの深い愛、そして、クリスチャンとしてどのように社会で生きるべきか、一つ一つ書かれています。まだ聖書をちゃんと読んでいない人は、まず新約聖書から読み始めてみてください。これはまったく個人的な意見なのですが、私はこんな順番で読むと内容が理解しやすいと思います。

1、マタイ/ルカ/ヨハネ (基本的には同じ内容がそれぞれの筆者の視点からかかれています。イエス様の生涯をまず知りましょう。とくに十字架の意味を理解するためには不可欠です。)
2、使徒言行録 (イエス様が復活して、天に戻ったあとの使徒達の伝道の様子がかかれています。)
3、ローマ章(救いの福音がはっきりと示されています。)
4、ペテロ1.2,エフェソ(クリスチャンとしての心構え、生き方など毎日の生活における必要な教えです。)

これと同時並行で、旧約聖書の箴言を毎日一章ずつ読むと、目からうろこがおちます。また、詩編をよんで心励まされてください。さらにやる気をだして、創世記に手をだせば、神様の偉大さがよく理解できますので、是非がんばってみてください。毎日、朝おきてから20分だけ、聖書の時間に当てることを初めてみましょう。驚くくらいたくさん読み進められるものですよ。少しずつ、毎日続ける事が一番大事です!


2009年6月12日

考える事

今日は、新約聖書のフィリピ信徒への手紙から。この書は、パウロが信心深いフィリピの信徒達へかき送った励ましの手紙です。つまり、救われていて、熱心にイエス·キリストの福音のために活動している人達へ宛てたものです。

第4章4節
REJOICE IN THE LORD ALWAYS: AND AGAIN I SAY, REJOICE.
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

4章5−7節
LET YOUR MODERATION BE KNOWN UNTO ALL MEN. THE LORD IS AT HAND. BE CAREFUL FOR NOTHING; BUT IN EVERY THING BY PRAYER AND SUPPLICATION WITH THANKSGIVING LET YOUR REQUESTS BE MADE KNOWN UNTO GOD. AND THE PEACE OF GOD, WHICH PASSETH ALL UNDERSTANDING, SHALL KEEP YOUR HEARTS AND MINDS THROUGH CHRIST JESUS.
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト·イエスにあって守ってくれます。

イエス様の福音を信じ、救われている私達は、普段どのような人間として他人の目に映っているでしょうか?世の中の常識やストレスに流されて、とげとげしたり、きりきりしたり、嫌な人間になっていませんか?クリスチャンとして、私達が生きるべき姿とは、キリストを模範とした寛容な心と、神様とのつながりをもった祈りのある生活です。

2章3−9節
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト·イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、御自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じ様になられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

もちろん、このような姿勢で生きるためには、毎日、聖書とお祈りを通して神様へ自分の心の内を打ち明け、そして御心を聞く事が欠かせません。

4章8節
FINALLY, BRETHREN, WHATSOEVER THINGS ARE TRUE, WHATSOEVER THINGS ARE HONEST, WHATSOEVER THINGS ARE JUST, WHATSOEVER THINGS ARE PURE, WHATSOEVER THINGS ARE LOVELY, WHATSOEVER THINGS ARE OF GOOD REPORT; IF THERE BE ANY VIRTUE, AND IF THERE BE ANY PRAISE, THINK ON THESE THINGS.
最後に、兄弟達。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判のよいこと、そのほか徳と言われる事、称賛に値する事があるならば、そのようなことに心を留めなさい。

普段、何の気無しに暮らしている時,あなたはどんな事を考えていますか?自分の頭と心を、テレビのドラマの内容とか、職場のストレスで埋めていませんか?聖書に従って、上記のような事を考えていると、神様の平安が本当に心に染み渡ります。まだイエス様の福音の奇跡を信じていない方は、まず自分の魂の永遠の行き先を地獄から天国へと救っていただきましょう。地獄や天国なんて、ありはしないから信じないとお考えの方、もし、地獄や天国が本当のものだったらどうしますか?イエス様の名にすがって救われていないあなたは、確実に地獄への暗闇を毎日一歩ずつ前進しているのです。この世で生きている間に、救いを信じる事に、どのような損があるでしょうか。もう一度考えてみてください。

2009年5月26日

詩編116章

詩編116章

わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。

死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ
苦しみと嘆きを前にして 主の御名をわたしは呼ぶ。
「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」

主は憐れみ深く、正義を行われる。
わたしたちの神は情け深い。
哀れな人を守ってくださる主は 
弱り果てたわたしを救ってくださる。
わたしの魂よ、再び安らうがよい
主はお前に報いてくださる。

あなたは私の魂を死から 
わたしの目を涙から
わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。
命あるものの地にある限り、わたしは主の御前に歩み続けよう。
わたしは信じる
「激しい苦しみに襲われている」というときも
不安がつのり、人は必ず欺く、と思う時も。

主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。
救いの杯を上げて主の御名を呼び
満願の献げ物を主にささげよう
主の民すべての見守る前で。

主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
どうか主よ、わたしの縄目を解いて下さい。
わたしはあなたの僕。
わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。
あなたに感謝のいけにえをささげよう。
主の御名を呼び 主に満願の献げ物をささげよう
主の民すべての見守る前で
主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。

この詩編は、実によく神による個人の魂の「救い」があらわれていると思います。
イエス様による魂の救いは、私達の魂を永遠の死、地獄から救い出してくださいます。そして私達の目の涙を拭い、人間による裏切りなどによって心痛むときも、安らぎを与えて下さるのです。じっくりこの詩編を読んでみて下さい。

2009年5月16日

狭い門

マタイの福音書7:13−14
ENTER YE IN AT THE STRAIT GATE; FOR WIDE IS THE GATE, AND BROAD IS THE WAY, THAT LEADETH TO DESTRUCTION, AND MANY THERE BE WHICH GO IN THEREAT: BECAUSE STRAIT IS THE FATE, AND NARROW IS THE WAY, WHICH LEADETH UNTO LIFE, AND FEW THERE BE THAT FIND IT.
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

神様は、私達に二つの道を示して下さっています。ひとつは、広々としていて真っ直ぐで、多くの人が向かって行く滅びに通じる門。もう一つは、細い道から続く狭い門で、少数の人だけが見つけることができる、命に通じる門です。滅びか、命か、その二つです。

詩編1:6
FOR THE LORD KNOWETH THE WAY OF THE RIGHTEOUS: BUT THE WAY OF THE UNGODLY SHALL PERISH.
神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

二つの道とはまた、神様に従う人の道と神様に逆らう人の道です。では、神様に従う事、とはどういう事でしょうか?

箴言 21:2
EVERY WAY OF A MAN IS RIGHT IN HIS OWN EYES: BUT THE LORD PONDERETH THE HEARTS.
人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中をはかられる。

世の中には様々な宗教が存在しますが、それらの形式的な儀式を追う事が、神様に喜ばれることでしょうか?それは違います。神様は、私達人間の心の中をご存知です。キリストはマタイの福音書23章でこれらの人々についてはっきりと批判しています。23章全部を読んでみてください。

マタイの福音書 23:25
WOE UNTO YOU, SCRIBES AND PHARISEES, HYPOCRITES! FOR YE MAKE CLEAN THE OUTSIDE OF THE CUP AND OF THE PLATTER, BUT WITHIN THEY ARE FULL OF EXORTION AND EXCESS.
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

形式ばかりの宗教やカルトは、神様に従う道ではありません。

マタイの福音書22:36、37
THEN ONE OF THEM, WHICH WAS A LAWYER, ASKED HIM A QUESTION, TEMPTING HIM, AND SAYING, MASTER, WHICH IS THE GREAT COMMANDMENT IN THE LAW? JESUS SAID UNTO HIM, THOU SHALT LOVE THE LORD THY GOD WITH ALL THY HEARTM AND WITH ALL THY SOUL, AND WITH ALL THY MIND.
律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい.』

イエスは、神様を心から愛すること、それが最も重要であると言っています。ではどうしたら、神様を愛することができるのでしょうか?それは、救われることです。私達は、救われると内側から清められ、新しく生まれ変わります。

パウロは、コリント信徒への手紙2でこのように述べています。 

5章17節
THEREFORE IF ANY MAN BE IN CHRIST, HE IS A NEW CREATURE: OLD THINGS ARE PASSED AWAY; BEHOLD, ALL THINGS ARE BECOME NEW.
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

人間の心は、誰しも汚いものです。しかし、それを清らかにしてくれるのが、イエス·キリストの救済の奇跡なのです。罪により神様から離れてしまった私達と神様との中を仲介してくださる方、それが唯一、イエス·キリストです。パウロはこうつづけます。

5章18−20節
AND ALL THINGS ARE OF GOD, WHO HATH RECONCILED US TO HIMSELF BY JESUS CHRIST, AND HATH GIVEN TO US THE MINISTRY OF RECONCILIATION; TO WIT, THAT GOD WAS IN CHRIST, RECONCILING THE WORLD UNTO HIMSELF, NOT IMPUTING THEIR TRESPASSES UNTO THEM; AND HATH COMITTED UNTO US THE WORD OF RECONCILIATION. NOW THEN WE ARE AMBASSADORS FOR CHRIST, AS THOUGH GOD DID BESEECH YOU BY US: WE PRAY YOU IN CHRIST’S STEAD, BE YE RECONCILED TO GOD.
これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問う事なく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

あなたは、イエス·キリストに神様と和解させていただけるように、もうお願いしましたか?道は二つしかありません。破滅か、命か。永遠の炎に自ら身を投じないでください。私達のこの肉体は、今日死ぬかもわからないのですから!

ヨハネの福音書14章6節
JESUS SAITH UNTO HIM, I AM THE WAY, THE TRUTH, AND THE LIFE: NO MAN COMETH UNTO THE FATHER, BUT BY ME.
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行く事ができない。」

2009年5月7日

テモテへの手紙

第一テモテ2:4−6
WHO WILL HAVE ALL MEN TO BE SAVED, AND TO COME UNTO THE KNOWLEDGE OF THE TRUTH. FOR THERE IS ONE GOD, AND ONE MEDIATOR BETWEEN GOD AND MEN, THE MAN CHRIST JESUS; WHO GAVE HIMSELF A RANSOM FOR ALL, TO BE TESTIFIED IN DUE TIME.
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト·イエスただおひとりなのです。この方はすべての人のあがないとして御自身を献げられました。

新約聖書にある第一、第二テモテは、パウロから若い牧師であるテモテへ向けられた教えと励ましの手紙です。イエス様の福音を信じ、信仰を持ってクリスチャンになった人には、とても有益な教えがたくさん書かれているので、是非何度も通して読んでみて下さい。とても短い書なので、聖書通読を怠けがちな方も是非チャレンジしてみてください。

パウロはここではっきりと、福音は全ての人々に伝えられるべきものであると言っています。神様は、私達人間がすべて地獄に落ちない様にと、イエス·キリストを仲介者として地上に送られました。私達が神様による地獄からの救済を受けるには、イエス·キリストのあがないの業を信じ、十字架の上で流された血によって、私達の罪も洗い流していただけるよう、いままでの罪を反省し、イエス様の名によって、神様へと仲介していただく事が唯一の手段です。天国と地獄、あなたはどちらを選びますか?

第一テモテ6:7−10
FOR WE BROUGHT NOTHING INTO THIS WORLD, AND IT IS CERTAIN WE CAN CARRY NOTHING OUT. AND HAVING FOOD AND RAIMENT LET US BE THEREWITH CONTENT. BUT THEY THAT WILL BE RICH FALL INTO TEMPTATION AND A SNARE, AND INTO MANY FOOLISH AND HURTFUL LUSTS, WHICH DROWN MEN IN DESTRUCTION AND PERDITION. FOR THE LOVE OF MONERY IS THE ROOT OF ALL EVIL; WHICH WHILE SOME COVETED AFTER, THEY HAVE ERRED FROM THE FAITH, AND PIERCED THEMSELVES THROUGH WITH MANY SORROWS.
わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持って行く事ができません。食べるものと着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害な様々の欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

「金の亡者」なんていう言葉がありますが、聖書もはっきりとその事を言っています。金銭の欲は、すべての悪の根です。これは、けっしてお金を持っていることがいけない、といっているのではありません。すべて、金もうけのためだけに生きようとすると、有害な欲望に陥る、とさとしているのです。この世で、仕事やお金が生き甲斐となってしまっていると、人生はなんと虚しいものだったのか、と後悔することでしょう。しかも、死んでから地獄の火に永遠に焼かれるなんて、なんのためにうまれてきたのか、悔やんでも悔やみきれないでしょう。このあいだ書いた、金持ちとラザロの金持ちはいまこの瞬間も、天にいるラザロを眺めながら、灼熱の炎に焼かれて苦しんでいるのです。

第一テモテ6:15−16
WHICH IN HIS TIMES HE SHALL SHEW, WHO IS THE BLESSED AND ONLY POTENTATE, THE KING OF KINGS, AND LORD OF LORDS; WHO ONLY HATH IMMORTALITY, DWELLING IN THE LIGHT WHICH NO MAN CAN APPROACH UNTO; WHOM NO MAN HATH SEEN, NOR CAN SEE: TO WHOM BE HONOUR, AND POWER EVERLASTING. AMEN.
神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見た事が無く、見る事のできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。

唯一の真理を伝えてくださるイエス·キリストを今日、信じてみませんか?

2009年5月2日

金持ちとラザロ

ルカ書16章19−31節

ある金持ちがいた、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやってきては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかしアブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今はここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前達の間には大きな淵があって、ここからお前達の方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来る事もできない.』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が5人います。あの者達まで、こんな苦しい場所にくる事のないように、よく言い聞かせて下さい.』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟達にはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう.』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言う事を聞き入れはしないだろう.』

この話は、イエスが弟子達に様々なたとえ話をもって、救いの奇跡について教えているところです。ここで、金持ちは、この世で散々贅沢をして暮らしていましたが、神様を信じて救われてはいませんでした。一方、この世でひどい生活をしていたラザロは、信仰により神様を信じ救われていました。アブラハムは、旧約聖書のなかでも、神様への信仰により救われていた人間の象徴でもある人物で、この話では、天国の宴席において、ラザロはアブラハムの隣で喜びに満ちあふれています。一方、金持ちは救われていなかったため地獄に落ち、炎に焼かれながら、その苦しさのあまり渇ききって天国を見上げます。そこにラザロを見た彼は、水の一滴欲しさにアブラハムに語りかけます。また、救われていなかった事を後悔した金持ちは、せめて自分の兄弟達にはこの苦しみを味あわせたくないと思い、ラザロを彼らの元に送ってくれるように願います。死んだ者が現れて、天国と地獄が実現する事を述べれば、悔い改めて救いの道に入ってくれるだろうと思ったからです。しかし、アブラハムは、この世に救いのメッセージを述べ伝えている者たちがいるにも関わらず、それに聞く耳をもっていない彼らは、たとえ死人が甦って真実を語っても、それを受け入れる事は無いだろう、と言うのです。

今、生きている間に、私達はアフリカや第三国の人々に比べて、どんなに豊かに暮らしているでしょうか。経済が悪い、悪いと嘆いていても、食卓に何も無い、雨風から守ってくれる屋根も洋服も何もない、ということはなかなかありません。すると、私達の目は、この世のものばかりに気をとられていて、自分たちの肉体が死んだあとの世界の真実を、なかなか受け入れようとはしません。しかし、このたとえ話にある金持ちは、この世にいる間受け入れず、地獄に落ちてつくづく後悔しています。灼熱の炎に焼かれながら、そこから永遠に出る事のできない事実に直面し、せめて兄弟は天国に行ってほしいと願っています。しかし、兄弟達もまた、この世で福音を述べ伝える者がいるにも関わらず、それに耳を貸していなかったのです。

あなたは、今日、聞く耳を持たなかった金持ちでありますか?それとも、ラザロのように、信仰を持って永遠の行く先を天国に向けますか?私達はいつこの世からオサラバするかわからないのです。今日かもしれないし、明日かもしれません。死んでしまってからでは遅いのです。後悔先に立たず。決断を先延ばしにしないで下さい。イエス様はその御手を広げて、今日もあなたの決断を待って下さっているのです。

2009年4月28日

目からうろこ

聖書を読んでいると、よく使うことわざの語源を発見することが多いです。今回は「目からうろこ」について。

使徒言行録9:17、18
AND ANANIAS WENT HIS WAY, AND ENTERED INTO THE HOUSE; AND PUTTING HIS HANDS ON HIM SAID, BROTHER SAUL, THE LORD, EVEN JESUS, THAT APPEARED UNTO THEE IN THE WAY AS THOU CAMEST, HATH SENT ME, THAT THOU MIGHEST RECEIVE THY SIGHT, AND BE FILLED WITH THE HOLY GHOST. AND IMMEDIATELY THERE FELL FROM HIS EYES AS IT HAD BEEN SCALES: AND HE RECEIVED SIGHT FORTHWITH, AND AROUSE, AND WAS BAPTISED.
そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへくる途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元通り目が見える様になり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元通り見える様になった。そこで身を起こして洗礼を受けた。

サウロとは、新約聖書のコリント信徒への手紙、ガラテヤ信徒への手紙、エフェソ信徒への手紙などを書いたパウロの事です。聖書がお手元にある方は、使徒言行録の9章を読んでみてください。サウロはユダヤ教徒としてイエスの弟子達を迫害していました。(使徒言行録8章3節:一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。)そして、さらに迫害をしようと旅をしていた時、イエス様御自身がサウロに語りかけます。

9章3節−8節
サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人達は、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。

こうして、サウロはイエス様御自身により目をみえなくされます。そして言われた通り、同行の者たちに手をひかれてダマスコの町に入りました。ダマスコには、イエスの弟子のアナニアがいました。イエス様は彼にサウロの元に行く様に命じます。アナニアは、サウロがキリスト者達を迫害する者だと知っていたので尻込みしますが、イエス様の命じられたとおり、彼のもとに向かい、冒頭の聖句のように、サウロの上に手を置きました。サウロは、その瞬間、目からうろこのようなものが落ち、視力が戻り、イエス様の力が真実であると知り、回心し、キリスト者となりました。

このサウロの回心の話は、聖書の中で好きな話のうちの一つです。彼は、目からうろこのようなものが落ちて、目が見える様になったのです。ですから、目からうろこ、とは、視野が開け物事の実態が理解できるようになることを意味するわけです。また、自分の誤りを悟り、迷いから目覚めるという意味もあります。まさに、サウロは自分の誤りをイエス様御自身によって悟らされ、そしてパウロとして、多くの異邦人たちに告げ知らせるため活躍し、新約聖書にある多くの手紙を書いたのでした。一般的に日本に普及しているこういうことわざも、出典が聖書だということを聖書を読んでいて気がつき、福音の力ってすごい!と思いました。またいろいろご紹介します!

2009年4月22日

小さな事

先週風邪をひいていたので、更新が久しぶりになってしまいました。子育てしながら風邪ひいてるのってつらいですね。旦那の実家に住んでいるので、おじいちゃん、おばあちゃんが息子の面倒を見てくれるので助かりましたが、いやはや、健康第一。

詩編111章
PRAISE YE THE LORD, I WILL PRAISE THE LORD WITH MY WHOLE HEART, IN THE ASSEMBLY OF THE UPRIGHT, AND IN THE CONGREGATION.THE WORKS OF THE LORD ARE GREAT, SOUGHT OUT OF ALL THEM THAT HAVE PLEASURE THEREIN. HIS WORK IS HONOURABLE AND GLORIOUS: AND HIS RIGHTEOUSNESS ENDURETH FOR EVER.
ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげる。正しい人々の集い、会衆の中で。主の御業は大きく、それを愛する人は皆、それを尋ね求める。主の成し遂げられることは栄え輝き、恵みの御業は永遠に続く。

HE HATH MADE HIS WONDERFUL WORKS TO BE REMEMBERD: THE LORD IS GRACIOUS AND FULL OF COMPASSION. HE HATH GIVEN MEAT UNTO THEM THAT FEAR HIM: HE WILL EVER BE MINDFUL OF HIS COVENANT. HE HATH SHEWED HIS PEOPLE THE POWER OF HIS WORKS, THAT HE MAY GIVE THEM THE HERITAGE OF THE HEATHEN.
主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み、主を畏れる人に糧を与え、契約をとこしえに御心に留め、御業の力をご自分の民に示し、諸国の嗣業をご自分の民にお与えになる。

THE WORKS OF HIS HANDS ARE VERITY AND JUDGMENT; ALL HIS COMMANDMENTS ARE SURE. THEY STAND FAST FOR EVER AND EVER, AND ARE DONE IN TRUTH AND UPRIGHTNESS. HE SENT REDEMPTION UNTO HIS PEOPLE: HE HATH COMMANDED HIS COVENANT FOR EVER: HOLY AND REVEREND IS HIS NAME.
御手の業はまことの裁き、主の命令はすべて真実。世々限りなく堅固に、まことをもって、まっすぐに行われる。主はご自分の民にあがないを送り、契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。

THE FEAR OF THE LORD IS THE BEGINNING OF WISDOM: A GOOD UNDERSTANDING HAVE ALL THEY THAT DO HIS COMMANDMENTS: HIS PRAISE ENDURETH FOR EVER.

主を畏れる事は知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

この詩編、流し読みしてしまうと、ふーん、っていう感じですが、一文ずつゆっくり読んでみて下さい。世の中にはいろいろな奇病とかがあって、普通に、五体満足で暮らしていることだけでも、神様からいただいている奇跡なんだな、とつくづく思います。近頃、本当に麻薬やアルコールで身を滅ぼしている人々が多くて、健康な体を神様からいただいているのに、その贈り物をなんて無駄にしているんだろう、と悲しくなります。また、鬱病とかヒステリーとかストレスに自分の身をコントロールされてしまうのも危険ですよね。だけどそういうヒステリーとかって、神様への感謝が足りないから起きるんだろうと思います。世の中はいろいろな生き方があるので、自分の境遇を嘆こうと思えば、どんな暮らしをしていたってマイナス思考になれるのです。あなたは、自分の生活を、今日洋服を着て、食卓には食事があり、健康な体があるという神様への感謝に溢れて過ごしていますか?それとも、それらの恵みを無視して、何か足りないものへの文句ばかりに溢れて過ごしていますか?自分の周りを見回してみて下さい。どれだけ、神様に感謝することがあるでしょうか!

2009年4月10日

イースター

マタイの福音書28章5、6節
AND THE ANGEL ANSWERED AND SAID UNTO THE WOMEN, FEAR NOT YE: FOR I KNOW THAT YE SEEK JESUS, WHICH WAS CRUCIFIED. HE IS NOT HERE: FOR HE IS RISEN, AS HE SAID.
天使は婦人達に言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」

イースターは、イエス·キリストが十字架にかかって死んだあと、三日後によみがえった復活を祝う日です。上の聖句では、イエス様は死ぬ前から、自分は死んだら三日後によみがえることを言っていた、とかかれています。その箇所をみてみましょう。

ルカの福音書9章21−22節
AND HE STRAITLY CHARGED THEM, AND COMMANDED THEM TO TELL NO MAN THAT THING; SAYING, THE SON OF MAN MUST SUFFER MANY THINGS, AND BE REJECTED OF THE ELDERS AND CHIEF PRIESTS AND SCRIBES, AND BE SLAIN, AND BE RAISED THE THIRD DAY.
イエスは弟子達を戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

神様の御言葉には、嘘や間違いはありません。イエス様は死ぬ前から、神様のご計画をご存知でしたので、弟子達に三日目に復活することを前もって伝えていました。もちろん、人間である弟子達は、当時はとても信じられなかったのですが、イエス様が埋葬されたお墓に三日目にマリアたちが行ってみると、その御言葉どおり、復活されてすでにお墓にはいませんでした。

神様が、聖書を通して人間に伝えている預言や御言葉はすべて真実であり、確かに起こる事です。今、たくさんの人が神様の存在を信じなかったり、惑わす偶像たちを信仰したり、カルトに傾倒したりしています。それは、皆が神様の約束を信じず、神様への信仰が消失していることから起きていると思います。聖書は、神様が人間達に向けて、人間を用いて綴ってくださった真実のメッセージです。聖書にある通り、イエス様は罪の一点もない、神聖な小羊として、全人類の罪を担って精神的、肉体的に父なる神様から引き離され、死を体験されました。そして、復活することにより、死を支配し、私達人間が自分たちの罪を認め、イエス様の名にすがる時、救いの手を差し伸べてくださるのです。

使徒言行録16章30、31節
SIRS, WHAT MUST I DO TO BE SAVED? AND THEY SAID, BELIEVE ON THE LORD JESUS CHRIST, AND THOU SHALT BE SAVED, AND THY HOUSE.
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

この言葉は、イエス様が天にお戻りになった後、使徒であるパウロとシラスが宣教している際にフィリピで投獄された時、看守たちにどうしたら救われることができるのか、と質問され答えている所です。イエス様を信じる事が、救いへの唯一の道です。それは、御言葉にこうあるからです。

ヨハネの福音書 14章6節
JESUS SAITH UNTO HIM, I AM THE WAY, THE TRUTH, AND THE LIFE: NO MAN COMETH UNTO THE FATEHR, BUT BY ME.
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行く事ができない。」

ここで、イエス様ははっきりと、父なる神様の元へは、イエス様を通してのみ、行く事ができると言っています。世の中の偶像崇拝では、自分たちがトランスすれば神様と交信ができるとか、どれだけ献金すれば、どれだけ善い行いをすれば、自分を捨て去って無になれば、、、、とか、神様になんとか近づこうとするいろいろな方法を教えます。けれど、それらは決して、必ず神様のもとへいかれるという約束はしていないのです。そんなばかな!と思う方は、自分が信じている方法論、または無神論をもっと研究してみてください。すぐに、そこには神様のもとへたどり着けるという確実の約束はされていないことがわかるはずです。けれど、イエス様は違います。はっきりと、私達が自分達の罪を認め、イエス様の十字架の上での死、そして復活により死を支配した奇跡を信じ、イエス様が十字架の上で流されたその血によって罪を洗い流していただけば、この肉体の朽ちる時、魂は神様の身元、天国へと救われる事ができると書かれています。

使徒言行録 4章12節
NEITHER IS THERE SALVATION IN ANY OTHER: FOR THERE IS NONE OTHER NAME UNDER HEAVEN GIVEN AMONG MEN, WHEREBY WE MUST BE SAVED.
ほかの誰によっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

ヨハネの福音書 5章24節
VERILY, VERILY, I SAY UNTO YOU, HE THAT HEARETH MY WORD, AND BELIEVETH ON HIM THAT SENT ME, HATH EVERLASTING LIFE, AND SHALL NOT COME INTO CONDEMNATION; BUT IS PASSED FROM DEATH UNTO LIFE.
わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

イエス様はまた、再び地上に戻ってこられると言っています。あなたは、その時、救われていてイエス様の再来を心待ちにしていますか、それとも、永遠に続く炎に飛び込みますか。。。?

ヨハネの黙示録 22章12−13節
AND BEHOLD, I COME QUICKLY; AND MY REWARD IS WITH ME, TI GIVE EVERY MAN ACCORDING AS HIS WORK SHALL BE. I AM ALPHA AND OMEGA, THE BEGINNING AND THE END, THE FIRST AND THE LAST.
見よ、わたし(イエス)はすぐ来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

2009年4月3日

行き先

今日Mixiを見ていたら、「ゴルフ場で突然できた穴に転落死」っていう記事があって、ものすごい考えさせられました。きっと日本じゃニュースになっているから皆知っていると思うけれど、家族四人で仲良くゴルフしていたら、突然ゴルフ場にできた深さ5mもの穴に奥さんが転落してお亡くなりになった、っていう話。春の気持ちいい日に家族で仲良く過ごしていた時に、本当に予想外の悲劇ですよね。まだお若いし、お子様も小さいのに、本当にこれからご家族もショックから立ち直るのが大変だと思います。いろいろな心の支えや恵みがあるようにお祈りします。

でも、この記事を読んで、死っていうのは、本当に誰も予想しなかった時にやってくるものだと、つくづく思いました。私達は日々生きていて、普通に健康だと、自分の死や家族の死について考えることってほとんどないと思います。しかし、こういうニュースを見ると、いまこうして呼吸をして元気にしていることだけでも、ものすごい神様からの恵みなんだなぁと感じます。私達人間は、誰しもがいつでも死と隣り合わせに生きているからです。

私は、このような不意の事故で亡くなった方達は、一体何人の人が「死ぬ準備」や「死ぬ心構え」ができていただろうか、と思います。きっとほとんどそんな人はいないでしょう。少数の救われていた人達以外は、気がついたら奈落の底で、暗闇と痛みにもがいている自分を発見することになる、そういうことです。

今日、あなたは死んでからの自分の行き先がわかっていますか?イエス様の福音は、今も昔も真実です。万が一、この身に何かがあって、この世を大切な人達誰にも会えずに去ることがあったとしても、「天国で会おうね」と言えるように、しておきたくはありませんか?

ヨハネ14:6
JESUS SAITH UNTO HIM,I AM THE WAY, THE TRUTH, AND THE LIFE; NO MAN COMETH UNTO THE FATHER, BUT BY ME.
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行く事ができない。」

天国への道は、たった一つです。十字架にかかり、人類の罪を洗い流してくださったイエス様に、今日より頼んでください。イエス様は、まったく罪をもたずこの世に人間として存在なさった神様御自身です。そのイエス様が、人間達によって十字架にかけられ死に、三日後に預言通りに生き返り、死を支配しました。父なる神様のもとへ、この肉体の死後私達が行かれる様に、その唯一の道であるイエス様の救いの奇跡を、今日信じましょう。自分の持つ罪を反省し、洗い流していただき、天国への道へと続く、神様の道を是非選んで下さい。

ローマ章6:23
FOR THE WAGES OF SIN IS DEATH; BUT THE GIFT OF GOD IS ETERNAL LIFE THROUGH JESUS CHRIST OUR LORD.
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト·イエスによる永遠の命なのです。

エレミヤ書17:7
BLESSED IS THE MAN THAT TRUSTETH IN THE LORD, AND WHOSE HOPE THE LORD IS.
祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。

まだ救われていない人は、どうぞイエス様にお祈りしてみて下さい。いままでの自分の犯した過ちを反省し、赦していただき、肉体の死後に天へと帰る事ができるように、イエス様の御名を通して神様を呼べば、その声は必ず、聞き届けられます。

さて、もうすぐイースターです。イースターは、イエス様の復活をお祝いする日です。次回はイースターのお話をしましょう。



2009年3月31日

「もう少しで」では意味がない

“ HE WHO IS ALMOST PERSUADED IS ALMOST SAVED, AND TO BE ALMOST SAVED IS TO BE ENTIRELY LOST” Rev Mr. Brundage
「あと少しで確信できそうだ、という者は、あと少しで救われる事ができそうな人のことである、しかしあと少しで救われる事ができそうだ、ということは、まったく救われていない、ということである。」

イエス·キリストの福音は、「何となくわかる気がする。」や、「賛成はするけれど、、、」「もう少しで納得いきそう」というような曖昧な立場では、その救いを受けることはできません。それは、信じると決めるか、信じないと決めるか、白黒はっきりとしたものなのです。上の言葉は、1800年代のBrundage牧師の言葉です。テストでもそうですが、70点以上が合格のテストで、69点を取った場合、「あと少しで合格できそうだった」ということはつまり、「落第だった」ということです。救われる、というのは、それと同じ様にはっきりとしたことです。しかし、テストと違い、努力したけれどだめだった、ということは無いのです。なぜなら、それは私達がこの世で善い事をできるだけしたら合格、などというものではなく、自分が信じると心を決め、今までの自分の罪をイエス·キリストを通して赦していただき、神様と共に歩むことを決め、救いを求めれば誰でも救われるからです。(ローマ章10章9−10節:なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。13節:「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

Almost persuaded
By Philp, P Bliss

“ Almost persuaded” now to believe;
“Almost persuaded” Christ to receive;
Seems now some soul to say,
“ Go, Spirit, go Thy way, Some more convenient day On…Thee I”ll call.”

“ Almost persuaded,” come, come today;
“ Almost persuaded” turn not away;
Jesus invites you here, Angels are ling’ring near
Prayers rise from hearts so dear, O…wand’rer, come

“ Almost Persuaded” harvest is past!
“Almost persuaded” doom comes at last!
“Almost” cannot avail ”Almost” is but to fail!
Sad, sad, that bitter wail, “ Almost” but lost.

「もう少しで確信できそうだ」今が信じる時である
「もう少しで確信できそうだ」イエス·キリストを受け入れるのは
どうやらある魂はこう言っている
「聖霊よ、あっちへ行ってくれ。また都合のいい時に、あなたを呼び求めよう」

「もう少しで確信できそうだ」さあ、今日おいでなさい
「もう少しで確信できそうだ」背を向けないで
イエスがあなたを招き、天使達が周りに飛び交っている
心からの祈りが天に向かう 迷い子達よ、おいでなさい

「もう少しで確信できそうだ」収穫の時は過ぎた!
「もう少しで確信できそうだ」終わりの時がとうとうやってくる!
「もう少しで」は意味がない。「もう少しで」はすなわち失敗だ!
悲しい、悲しい、痛恨の嘆きが聞こえる 「もう少しで」しかし救われなかった者達よ。


この聖歌は、そんな「もう少しで」信じることを拒んだ者達は、終わりの時がやってきた時、悲しい悲痛の叫びをあげることになる、と歌っています。今日、イエス·キリストの招きを受け入れて下さい。あなたを止めているものはなんですか?人間たちが創り出した神々は,あなたを天国へ導いてはくれません。たとえこの世が幻で、すべて夢であったとしても、今天国への道を確信し、あなたの永遠の行く先を決めておく事に何の間違いがあるでしょうか。あなたをとどめているのは、悪魔です。あなたを永遠の暗闇、痛みと熱に燃え盛る炎で苦しむ姿を喜ぶのは、悪魔以外に誰がいるでしょう。選択は、あなたの手中にあります。イエス·キリストの偉業を信じ、罪を洗い流してもらい、天国で多くの勝利者達と集いましょう。けっして、「あと少し」のところで、永遠の暗闇に落ちないで下さい。

2009年3月25日

心の中心

「金持ち」になることを人生の目的としている人って、けっこういるのではないでしょうか。お金は生きて行く上で必要なものですが、それが思考の中心になってしまってはいませんか?

箴言23:4
LABOUR NOT TO BE RICH: CEASE FROM THINE OWN WISDOM.WILT THOU SET THINE EYES UPON THAT WHICH IS NOT? FOR RICHES CERTAINLY MAKE THEMSELVES WINGS; THEY FLY AWAY AS AN EAGLE TOWARD HEAVEN.
富を得ようとして労するな。分別をもって、やめておくがよい。目をそらすや否や、富は消え去る。鷲のように翼を生やして、天に飛び去る。

箴言 13:7
THERE IS THAT MAKETH HIMSELF RICH, YET HATH NOTHING:THERE IS THAT MAKETH HIMSELF POOR, YET HATH GREAT RICHES.
富んでいると見せて、無一物の者がいる。貧乏と見せて、大きな財産を持つものがある。

箴言 28:22
HE THAT HASTETH TO BE RICH HATH AN EVIL EYE, AND CONSIDERETH NOT THAT POVERTY SHALL COME UPON HIM.
貪欲な者は財産を得ようと焦る。やってくるのが欠乏だとは知らない。

お金は、手に取ると消えてしまう泡のような存在です。毎日変わるエコノミーも、安定せず、そこには何の確実性もありません。また、お金を手に入れようとして起こる犯罪も絶えません。あなたの心の中心には何がありますか?

エレミヤ書 9:23,24
THUS SAITH THE LORD, LET NOT THE WISE MAN GLORY IN HIS WISDOM, NEUTHERE LET THE MIGHTY MAN GLORY IN HIS MIGHT, LET NOT THE RICH MAN GLORY IN HIS RICHES: BUT LET HIM THAT GLORIETH GLORY IN THIS, THAT HE UNDERSTANDETH AND KNOWETH ME, THAT I AM THE LORD WHICH EXERCISE LOVINGKINDNESS, JUDGMENT, AND RIGHTEONSNESS, IN THE EARTH: FOR IN THESE THINGS I DELIGHT, SAITH THE LORD.
主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知る事を。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

第一テモテ6:7-10
FOR WE BROUGHT NOTHING INTO THIS WORLD, AND IT IS CERTAIN WE CAN CARRY NOTHING OUT. AND HAVING FOOD AND RAIMENT LET US BE THEREWITH CONTENT. BUT THEY THAT WILL BE RICH FALL INTO TEMPTATION AND A SNARE, AND INTO MANY FOOLISH AND HURTFUL LUSTS, WHICH DROWN MEN IN DESTRUCTION AND PERDITION. FOR THE LOVE OF MONEY IS THE ROOT OF ALL EVIL: WHICH WHILE SOME COVETED AFTER, THEY HAVE ERRED FROM THE FAITH, AND PIERCED THEMSELVES THROUGH WITH MANY SORROWS.
なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、全ての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

聖書の言葉は、この世で誇る富は、一瞬にして消えてしまうもの、そして金銭の欲は全ての悪の根だと、言っています。神様は、イエス様を信じ、救いを求めた人達には、そのひとつひとつの願いを聞き、人生の荒波を乗り越えて行く手助けをして下さいます。あなたは神様にその声が聞き届けられるように、イエス様にお願いしましたか?心の中心に、いつもイエス様がいてくださり、一歩一歩を導いてくださるように、毎日お願いしたいですね。

2009年3月22日

知恵のはじめ

詩編111:10
THE FEAR OF THE LORD IS THE BEGINNING OF THE WISDOM: A GOOD UNDERSTANDING HAVE ALL THEY THAT DO HIS COMMANDMENTS
主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。

主を畏れること、ってどういうことでしょうか?上記の英語の方を見てみて下さい。日本語訳では「これ」と代名詞化されている語は「COMMANDMENTS」です。つまり、神様を畏れ、その戒めを守り行う人は、優れた思慮を得る、ということです。聖書を通して、神様は様々な教えや戒めを私達人間に与えて下さっています。箴言は、ソロモン王が記した教えの書で、特にわかりやすいものです。また、これらの戒めは、旧約聖書の時代にモーセに託された十戒だけでなく、新約聖書にあるイエス·キリストの教え、また、使徒達を通して綴られた神様からの御言葉に生き生きと伝えられています。
毎日聖書を少しでも読む事の大切さは、その読んだ少しの部分から、毎日ほんの少しずつ神様の戒めを学び、そして思慮を得て人間として成長することにあるのです。偉大な思想家達の本を読むのは結構な事ですが、人間の思想と神様の戒めは比べ物になりません。私達人間は、神様の手によって創られた創造物だからです。

第一コリント1:25
BECAUSE THE FOOLISHNESS OF GOD IS WISER THAN MEN; AND THE WEAKNESS OF GOD IS STRONGER THAN MEN.
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

第一コリント3:18−21
IF ANY MAN AMONG YOU SEEMETH TO BE WISE IN THIS WORLD, LET HIM BECOME A FOOL, THAT HE MAY BE WISE.
FOR THE WISDOM OF THIS WORLD IS FOOLISHNESS WITH GOD. FOR IT IS WRITTEN, HE TAKETH THE WISE IN THEIR OWN CRAFTINESS.
AND AGAIN, THE LORD KNOWETH THE THOUGHTS OF THE WISE, THAT THEY ARE VAIN. THEREFORE LET NO MAN GLORY IN MEN.

もしあなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、また、「主は知っておられる、知恵のある者たちの議論がむなしいことを」とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。

神様は、聖書を通して私達にイエス·キリストの救いの大切さ、神様からの恵みである事を繰り返し教えてくれています。しかし、私達人間は、その神様からの教えを無視して、自分たちの知識の方が勝っていると思いがちです。神様は、私達人間一人一人の髪の毛の本数までご存知な、全知全能の神です。まだ、イエス·キリストの救いの奇跡を受け入れていない人は、自分の知識と神様の知識と、どちらを信用するべきか、考えてみて下さいね!

第一コリント1:18−19
FOR THE PREACHING OF THE CROSS IS TO THEM THAT PERISH FOOLISHNESS; BUT UNTO US WHICH ARE SAVED IT IS THE POWER OF GOD. FOR IT IS WRITTEN, I WILL DESTROY THE WISDOM OF THE WISE, AND WILL BRING TO NOTHING THE UNDERSTANDING OF THE PRUDENT.
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」

2009年3月19日

困ったときの。。。

箴言18:10
THE NAME OF THE LORD IS A STRONG TOWER: THE RIGHETOUS RUNNETH INTO IT, AND IS SAFE.
主の御名は堅固な塔。正しい者はその中に走って行って安全である。

自分の身に危機が迫っている時、あなたは何により頼みますか?上にあげた箴言は、「困った時の神頼み」でもないですが、主であるイエス·キリストの元に走って行くことを示しています。ではなぜ主により頼むと安全なのでしょうか?


詩編19:7ー9
THE LAW OF THE LORD IS PERFECT, CONVERTING THE SOUL: THE TESTIMONY OF THE LORD IS SURE, MAKING WISE THE SIMPLE.
主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。

THE STATUTES OF THE LORD ARE RIGHT, REJOICING THE HEART:THE COMMANDMENT OF THE LORD IS PURE, ENLIGHTENING THE EYES.
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。

THE FEAR OF THE LORD IS CLEAN, ENDURING FOR EVER: THE JUDGMENTS OF THE LORD ARE TRUE AND RIGHETOUS ALTOGETHER.

主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。

神様のお定めになる律法には何一つ不公平な事も、間違いもありません。そしてそれは罪に親しんでいた魂を清め、正しさに導くことにより、魂を生き返らせてくれます。神様の御心は私達の心に日々喜びを与え、その清い教えは暗闇を歩いていた私達に光を与えてくれます。

19:13−14
KEEP BACK THY SERVANT ALSO FROM PRESUMPTUOUS SINS; LET THEM NOT HAVE DOMINION OVER ME: THEN SHALL I BE UPRIGHT, AND I SHALL BE INNOCENT FROM THE GREAT TRANSGRESSION.
あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、重い背きの罪から清められ、わたしは完全になるでしょう。

LET THE WORDS OF MY MOUTH, AND THE MEDITATION OF MY HEART, BE ACCEPTABLE IN THY SIGHT, O LORD, MY STRENGTH, AND MY REDEEMER.
私の口の言葉と、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。我が岩、わがあがない主、主よ。

今日、あなたの心は世の中の罪に染まって暗闇の中にいますか?それとも、自分の罪深さを認め、イエス様の名により頼んで、その安全な塔の中に逃げ込み、魂を生き返らせていただくようにお願いしますか?選択は、私達一人一人がしなければいけません。イエス様は、あなたが心から罪を認め、清らかさと正しさを求めるなら、その限りない愛であなたを救ってくださるのですよ。

2009年3月17日

永遠の約束


詩編16章7節

I WILL BLESS THE LORD, WHO HATH GIVEN ME COUNSEL: MY REINS ALSO INSTRUCT ME IN THE NIGHT SEASONS.

わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。


8節

I HAVE SET THE LORD ALWAYS BEFORE ME: BECAUSE HE IS AT MY RIGHT HAND, I SHALL NOT BE MOVED.

わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐ事がありません。


9節

THEREFORE MY HEART IS GLAD, AND MY GLORY REJOICETH: MY FLESH ALSO SHALL REST IN HOPE.

わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。


10、11節

FOR THOU WILT NOT LEAVE MY SOUL IN HELL; NEITHER WILT THOU SUFFER THINE HOLY ONE TO SEE CORRUPTION.THOU WILT SHEW ME THE PATH OF LIFE: IN THY PRESENCE IS FULNESS OF JOY; AT THY RIGHT HAND THERE ARE PLEASURES FOR EVERMORE.

あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。


詩編の言葉は、本当に美しいなあ、といつも思います。ここには、神様への感謝や、救いの喜びがとても生き生きと綴られています。神様の慈しみの元で生きていると、神様は確かに命の道を示して下さいます。それは、第一にイエス様による永遠の魂の救いであり、私達の魂は陰府(地獄)に渡されることはありません。次に、イエス様を通して神様にお祈りをする事で、神様の意志に添う祈り、つまり自分勝手な欲や罪に傾いた事でない希望は、神様の時間割に添って必ず成し遂げられます。心の不安や、焦燥をどうやって解決しようとしていますか?人間の手による占いやまじないは、あなたを助けてくれる事はありません。それらはすべて朽ちてゆくまやかしに過ぎないからです。


イザヤ書40章7、8節

THE GRASS WITHERETH, THE FLOWER FADETH; BECAUSE THE SPIRIT OF THE LORD BLOWETH UPN IT: SURELY THE PEOPLE IS GRASS.THE GRASS WITHERETH, THE FLOWER FADETH: BUT THE WORD OF OUR GOD SHALL STAND FOR EVER.

主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私達の神の言葉は永遠に立つ。


世の中や人間の心は常に移り変わりますが、神様と神様の御言葉は永遠に変わる事がありません。果てしなく移り行く世間の常識や流行を、空を掴む様に追うのではなく、神様の変わらない豊かさに心を休めてみませんか?それは、あなたが予想もしなかった程に、平安と確かさに満ちたものです。生活の困難や選択に追い迫られる時、イエス様の名によって、神様に通信をとってみましょう。きっと答えが見つかるはずです。

2009年3月15日

短気は損気

箴言14章17節

HE THAT IS SOON ANGRY DEALETH FOOLISHLY

短気な者は愚かなことをする。


箴言14章29節

HE THAT IS SLOW TO WRATH IS OF GREAT UNDERSTANDING: BUT HE THAT IS HASTY OF SPIRIT EXALTETH FOLLY.

怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。


聖書の言葉は難しい、と思っている方が多いですが、聖書って割合シンプルに直球勝負的な箇所も多いですよね。「短気は損気」って昔からよく言いましたが、今朝箴言を読んでいて聖句にあったのでご紹介。


近頃の若者は短気になっているとか、落ち着きがなくなっている、なんていう調査をよく耳にしますが、今時のメディアを赤ん坊の頃から見続けていたらそうなるよね、というのはあまり深く考えなくてもわかります。コンピューターグラフィックがどんどん進化しているので、事物のスピードも速くなっているし、見ているだけで頭がくらくらしてくるような映像ばかりです。ついでに、子供用アニメの内容も殺人とか犯罪とかをジョークにしたようなのが流行ったり、、、夢も希望もないですよね。人間同士のコミュニケーションよりも、テレビやパソコンのゲームや映画、音楽と過ごす時間が多いと、人間が歪んでくるのは当然でしょう。子供ってセンシティブな生き物だから、いろんな所から影響をどんどん吸収してしまう。小さなお子さんやティーンエイジのいる家庭では、特にメディアの影響には注意したいですね。


第一ヨハネ2章15、16節

LOVE NOT THE WORLD, NEITHER THE THINGS THAT ARE IN THE WORLD. IF ANY MAN LOVE THE WORLD, THE LOVE OF THE FATHER IS NO IN HIM. FOR ALL THAT IS IN THE WORLD, THE LUST OF THE FLESH, AND TE LUST OF THE EYES, AND THE PRIDE OF LIFE, IS NOT OF THE FATHER, BUT IS OF THE WORLD.

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父(神)を愛する愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、生活のおごり(プライド)は、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。


17節

AND THE WORLD PASSETH AWAY AND THE LUST THEREOF: BUT HE THAT DOETH THE WILL OF GOD ABIDETH FOR EVER.

世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。


特にクリスチャンの皆さん、あなたの家庭では、神様が第一ですか?それとも、この世や偶像が第一ですか?一度考えてみて下さいね!


詩編44章20、21節

IF WE HAVE FORGOTTEN THE NAME OF OUR GOD, OR STRETCHED OUT OUR HANDS TO A STRANGE GOD; SHALL NOT GOD SEARCH THIS OUT? FOR HE KNOWETH THE SECRETS OF THE HEART.

もし私達が私達の神の名を忘れ、ほかの神に私達の手を差し伸ばしたなら、神はこれを探り出されないでしょうか。神は心の秘密を知っておられるからです。

2009年3月6日

常識


もう三月!春の訪れもすぐそこですね。日本では春休みが近づいて来た頃でしょうか。さて先日、こんな本を買いました。今行っているゲツセマネ教会の図書館にあって、興味深いと思いアマゾンで注文しました。これからティーンエイジになるお子さんがいる方は、ぜひご購入をお勧めします。古い本なのですが。"Teenager, Someone Does Care!"by Pastor Fletcher A Brothers, Sword of the Lord publications 1984

この本は、麻薬、飲酒、婚前交渉、中絶、悪い音楽、ポルノ、同性愛など様々な問題について、神様はなんと言っているのか聖書から御言葉を照らし合わせてみせてくれます。モラルの乱れきった現代社会に、もっとこういう本が必要だと思いました。著者であるフレッチャー牧師は、ニューヨークで上記のような問題を抱え行く宛てのなくなった問題を抱えた青少年少女のための施設Freedom Viledgeの創設者でもあります。本の最後には、イエスの救いをこの施設で受け、まさに生まれ変わった若者達からの手紙が乗っています。なかなか考えさせられる本ですよ!

 

今日はこの本から「友人の選び方」についての聖句をご紹介します。22頁からです。

 

出エジプト記 EXODUS 23:2

THOU SHALT NOT FOLLOW A MLTITUDE TO DO EVEIL; NEITHER SHALT THOU SPEAK IN A CAUSE TO DECLINE AFTER MANY TO WREST JUDGEMENT

あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。

 

詩編 PSALM 1:1−2

BLESSED IS THE MAN THAT WALKETH NOT IN THE COUNSEL OF THE UNGODLY, NOR STANDETH IN THE WAY OF SINNERS, NOR SITTETH IN THE SEAT OF THE SCORNFUL.BUT HIS DELIGHT IS IN THE LAW OF THE LORD; AND IN HIS LAW DOTH HE MEDITATE DAY AND NIGHT.

いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。

 

箴言 PROVERBS 4:14

ENTER NOT INTO THE PATH OF THE WICKED, AND GO NOT IN THE WAY OF EVIL MEN.

神に逆らう者の道を歩くな。悪事を働く者の道を進むな。

 

第一コリント 1CORINTHIANS 5:11

BUT NOW I HAVE WRITTEN UNTO YOU NOT TO KEEP COMPANY, IF BE A FORNICATOR, OR COVETOUS, OR DRUNKARD, OR AN EXTORTIONER; WITH SUCH AN ONE NO NOT TO EAT.

わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の者を奪うものがいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。

 

第二コリント 2CONRINTHIANS 6:17

WHEREFORE COME OUT FROM AMONG THEM, AND BE YE SEPARATE, SAITH THE LORD, AND TOUCH NOT THE UNCLEAN THING; AND I WILL RECEIVE YOU

あの者どもの中から出てゆき、遠ざかる様に、と主は仰せになる。そして汚れたものに触れるのをやめよ。そうすればわたしはあなたがたを受け入れる

 

子供が悪い事をするのは「皆がやっているから」とか「テレビでみたから」「漫画で読んだから」など、他人のやっている事を見て、流されてやっているという事は結構多いですよね。現代は、子供達が親の見ていない所でインターネットや携帯電話、テレビその他様々なメディアから情報を吸収し、自分なりの「常識」を組み立てていってしまいます。世の中は年々、モラルがなくなって来ています。私も親として、これからの子供達に必要なモラルを、世の中の悪い常識に流されず、きちんと教えて行きたいと思います。テレビやインターネットの、マスメディアが創り出す「常識」から子供達を守ってあげてくださいね。。。!

2009年2月27日

命綱


詩編116

1−2節

I LOVE THE LORD, BECAUSE HE HATH HEARD MY VOICE AND MY SUPPLICATIONS. BECAUSE HE HATH INCLINED HIS EAR UNTO ME, THEREFORE WILL I CALL UPON HIM AS LONG AS I LIVE.

わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。

 

3−4節

THE SORROWS OF DEATH COMPASSED ME, AND THE PAINS OF HELL GAT HOLD UPON ME: I FOUND TROUBLE AND SORROW. THEN CALLED I UPON THE NAME OF THE LORD; O LORD, I BESEECH THEE, DELIVER MY SOUL.

死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救い下さい。」

 

5−7節

GRACIOUS IS THE LORD, AND RIGHTEOUS; YEA, OUR GOD IS MERCIFUL. THE LORD PRESERVETH THE SIMPLE: I WAS BROUGHT LOW, AND HE HELPED ME. RETUREN UNTO THY REST, O MY SOUL; FOR THE LORD HATH DEALT BOUNTIFULLY WITH THEE.

主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。哀れな人を守って下さる主は、弱り果てた私を救って下さる。私の魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いて下さる。

 

8−11節

FOR THOU HAST DELIVERED MY SOUL FROM DEATH, MINE EYES FROM TEARS, AND MY FEET FROM FALLING.  WILL WALK BEFORE THE LORD IN THE LAND OF THE LIVING. I BELIEVED, THEREFORE HAVE I SPOKEN: I WAS GREATELY AFFLICTED: I SAID IN MY HASTE, ALL MEN ARE LIARS.

あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から助け出して下さった。命あるものの地にある限り、わたしは主の御前に歩み続けよう。わたしは信じる。「激しい苦しみに襲われている」と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思う時も。


人間生きていると、おそらく人生に少なくとも一度位は、詩編116に自分が重なる体験があると思います。この詩編は、イエス·キリストが十字架にかかっている時の様子を表している、とあるコメンタリーには書いてありました。しかしそれだけでなく、この地上で生きていると、自分の弱さや絶望、裏切りや嘘に直面し、傷ついたり、悲しんだり、心痛む思いすることはたくさんあります。そんな時、わたしたちには正義をもって裁いてくださる神様がいます。四方八方を見回しても、誰も助けてくれそうにない時、あなたはどこを向きますか?

世の中には弱っている人を捕まえるいろいろなキャッチがありますが、本当の救い、魂の救済は唯一イエス·キリストにより頼むことによって可能です。私達人間はいつ交通事故や心臓麻痺でこの世から予想もせずにオサラバしなければいけないかわかりません。そうしたら、救われていない魂は一瞬で地獄行きです。死んでからの行く先なんて、死ぬ間際に考えればいいや、などと思わないで下さい。私達は自分の足下が崖っぷちに立っている事すら気がつかないのですから。まだ救いを求めていない方は、こう考えてみてください。あなたは、キリマンジャロの山頂で命綱無しに歩いています。両側は崖で、強い風が吹けば、足を滑らせて落ち、確実に命を失います。そんなとき、天から命綱が降りてきました。その命綱はあなたが残りの山頂を歩く旅の道しるべとなり、危険な時の支えとなってくれます。あなたはその命綱を掴みますか?それとも無視して歩き続けますか?

 

私達の命綱は、天から降りて来てくださったイエス·キリストです。今日、自分の今までの過ちや罪を反省し、命綱を心から喜んで受け取ってください。そこからの旅路は、まだ救われていないあなたには予想ができない程、まったく違ったものになりますよ。

 

2009年2月24日

一周年

2008年の2月半ばに始めたこのブログも、いつの間にか一周年です。一年がたつのは、こんなに早いものだったでしょうか、と歳をとるたびに思いますが。振り返ると、引っ越し、出産、また引っ越しと移動の多い一年でした。よく、アメリカと日本とどっちが住みやすい?という質問をされるのですが、どこの国に行っても、それぞれに良い所と悪い所とあるので、一概には決められませんね。イギリスにも長く住んだし、ヨーロッパも散々廻りましたが、結局は「住めば都」とはよく言ったもので、住んでいる土地そのものよりも、自分の状態がどうであるか、というのが一番重要なんだとわかりました。


かつて神様を知らなかった時は、東京にいてもロンドンにいても、どこかの田舎にいても、どんなに忙しく活動していても、心に空いた穴が埋まることはありませんでした。いつでも、どこでも、付きまとってくる空虚感と焦燥感、求めても満たされない、見回しても見つからない、何を追い求めているのか分からないのに、無我夢中で空を追うような、掴んでも掴んでも、手からすり抜けてゆく、存在しない陰に追い回されているような、そんな日々でした。


神様を知りたいと思い始めた時は、困惑と混沌の日々でした。


救われて、神様の前に正しくありたいと心から願う様になってからは、自分に与えられている神様からの恵みがはっきりと見えて、毎日感謝に満たされる日々になりました。


人生の転機を迎えてから、この一年は聖書の勉強を少しずつ始めた、ベイビーステップでした。そろそろよちよち歩きができるようになりたいものですが、、、。


クリスチャンとして生きるための鍵は、毎日、お祈りと聖書を読む事を通して、神様と対話をする事だとわかりました。世の中に当たり前にある常識がどこから来ているのか、毎日新しい発見の連続です。また、時代や国が変わっても、人間の本質は何も変わっていない、ということもよくわかります。人間のもつ罪の性質や悪というのは、不変なんですね。


これからも日々の勉強を、皆さんと少しでもシェアして行きたいので、よろしくおねがいします!

2009年2月15日

バレンタイン

バレンタインデーということで、旦那様から素敵な薔薇と、美味しいチョコレートコーティングのかかった苺をいただきました;—)単身赴任で一緒には居ないけれど、こういうプレゼントは嬉しいですね。

 

さて今日は、LIFE=命とは何かという事について考えてみましょう.

 

箴言4:20−22

MY SON, ATTEND TO MY WORDS; INCLINE THINE EAR UNTO MY SAYINGS. LET THEM NOT DEPART FROM THINE EYES; KEEP THEM IN THE MIDST OF THINE HEART. FOR THEY ARE LIFE UNTO THOSE THAT FIND THEM, AND HEALTH TO ALL THEIR FLESH.

わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。私の言う事に耳を向けよ。見失う事無く、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり、全身を健康にする。

 

4:23−24

KEEP THY HEART WITH ALL DILIGENCE; FOR OUT OF IT ARE THE ISSUES OF LIFE.PUT AWAY FROM THEE A FROWARD MOUTH,AND PERVERSE LIPS PUT FAR FROM THEE.

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。 

 

箴言 8:34−35

BLESSED IS THE MAN THAT HEARETH ME, WATCHING DAILY AT MY GATES, WAITING AT THE POSTS OF MY DORS. FOR WHOSO FINDETH ME FINDETH LIFE, AND SHALL OBTAIN FAVOUR OF THE LORD.BUT HE THAT SINNETH AGAINST ME WRONGETH HIS OWN SOUL: ALL THEY THAT HATE ME LOVE DEATH.

わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい、戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。わたしを見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができる。わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。

 

箴言には、正しい道を行くための諭しがたくさん書かれています。上にある箴言8章でいう「わたし」とは知恵の事なのですが、知恵とはイエス·キリストです。イエス·キリストを見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができる。イエス·キリストを見失う者は魂をそこなう。イエス·キリストを憎む者は死を愛する。ここはつまり、イエス·キリストによる永遠の命の事を指しています。ヨハネの書で、イエスはこう言っています。

 

ヨハネ8:51

VERILY, VERILY, I SAY UNTO YOU, IF A MAN KEEP MY SAYING, HE SHALL NEVER SEE DEATH.

はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬ事がない。

 

ヨハネ17:3

AND THIS IS LIFE ETERNAL.THAT THEY MIGHT KNOW THEE THE ONLY TRUE GOD, AND JESUS CHRIST, WHOM THOU HAST SENT.

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス·キリストを知る事です。

 

第一ヨハネ5:12

HE THAT HATH THE SON HATH LIFE; AND HE THAT HATH NOT THE SON OF GOD HATH NOT LIFE.

御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

 

ヨハネ3:36

HE THAT BELIEVETH ON THE SON HATH EVERLANSTING LIFE; AND HE THAT BELIEVETH NOT THE SON SHALL NOT SEE LIFE; BUT THE WRATH OF GOD ABIDETH ON HIM.

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。

 

神様の御言葉は、私達一人一人に命を与えます。神様の御言葉とは、イエス·キリストです。

 

ヨハネ1:1−4

IN THE BEGINNING WAS THE WORD, AND THE WORD WAS WITH GOD, AND THE WORD WAS GOD. THE SAME WAS IN THE BEGINNING WITH GOD. ALL THINGS WERE MADE BY HIM; AND WITHOUT HIM WAS NOT ANY THING MADE THAT WAS MADE. IN HIM WAS LIFE; AND THE LIFE WAS THE LIGHT OF MEN.

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

 

さて、一番最初の聖句に戻ってみて、もう一度全部読み直してみてください。

命=神様の言葉=イエス·キリスト というのがわかりましたか?

なぜ聖書を読む事が大切なのでしょうか?それは、聖書は神様の御言葉=私達の日々の糧となるからです。一日短い聖句たった一つでも、毎日聖書を読んで、神様からの知恵を学んでいきましょう!

2009年2月9日

LAST DAY

終わりの日は近い


今日は、またまたジェリー ギブソン牧師のお話から。まずは第一ペトロの4章1から11節を読んでみて下さい。

イエス様はいつ、この地上にお戻りになるかわかりません。この聖句で、ペトロはこの終わりの日が近づいた今、私達は何をするべきか、という神様からの指令を書いています。それは、救われている人間達を、イエス降臨のその瞬間のために準備し、また励ますため。そして、救われていない者たちを救うためです。

 

第一ペトロ4章1−3節

FORASMUCH THEN AS CHRIST HATH SUFFERED FOR US IN THE FLESH, ARM YOURSELVES LIKEWISE WITH THE SAME MIND: FOR HE THAT HATH SUFFERED IN THE FLESH HATH CEASED FROM SIN; THAT HE NO LONGER SHOULD LIVE THE REST OF HIS TIME IN THE FLESH TO THE LUSTS OF MEN, BUT TO THE WILL OF GOD. FOR THE TIME PAST OF OUR LIFE MAY SUFFICE US TO HAVE WROUGHT THE WILL OF THE GENTILES, WHEN WE WALKED IN LASCIVIOUSNESS, LUSTS, EXCESS OF WINE, REVELLINGS, BANQUETINGS, AND ABOMINABLE IDOLATRIES:

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく、神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きる様になるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで充分です。

 

4章4−6節

WHEREIN THEY THINK IT STRANGE THAT YE RUN NOT WITH THEM TO THE SAME EXCESS OF RIOT, SPEAKING EVIL OF YOU; WHO SHALL GIVE ACCOUNT TO HIM THAT IS READY TO JUDGE THE QUICK AND THE DEAD. FOR FOR THIS CAUSE WAS THE GOSPEL PREACHED ALSO TO THEM THAT ARE DEAD, THAT THEY MIGHT BE JUDGED ACCORDING TO MEN IN THE FLESH, BUT LIVE ACCORDING TO GOD IN THE SPIRIT.

あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。彼らは、生きている者と死んだ者を裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きる様になるためなのです。

 

4章7−11節

BUT THE END OF ALL THINGS IS AT HAND: BE YE THEREFORE SOBER, AND WATCH UNTO PRAYER. AND ABOVE ALL THINGS HAVE FERVANT CHARITY AMONG YOURSELVES: FOR CHARITY SHALL COVER THE MULTITUDE OF SINS. USE HOSPITALITY ONE TO ANOTHER WITHOUT GRUDGING. AS EVERY MAN HATH RECEIVED GIFT, EVEN SO MINISTER THE SAME ONE TO ANOTHER, AS GOOD STEWARDS OF THE MANIFOLD GRACE OF GOD. IF ANYMAN SPEAK, LET HIM SPEAK AS THE ORACLES OF GOD;IF ANY MAN MINISTER, LET HIM DO IT AS OF THE ABILITY WHICH GOD GIVETH: THAT GOD IN ALL THINGS MAY BE GLORIFIED THROUGH JESUS CHRIST, TO WHOM BE PRAISE AND DOMINION FOR EVER AND EVER. AMEN.

万物の終わりが迫っていますだから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心をこめて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語るものは、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス·キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。アーメン。

 

ここには、私達が生きて行く上で非常に大切な心構えが書かれています。まず、第一に、BE SOBER MINDED,思慮深く振る舞うこと、です。これはつまり、はっきりとした頭できちんと考え、すべての事物に対して正しい態度で行動しなさい、ということです。現代は、様々な「信仰」で溢れています。そして、たくさんの嘘の教えが溢れています。私達は一つ一つをきちんと目を開いて吟味し、決して悪魔の嘘にだまされないようにしないといけません。ネガティブ思考というものもまた、悪魔から来るものです。何かひとつマイナス方向に考えだして、どんどん一人で暗く悩んで、ノイローゼ風になってしまう人が大勢います。しかし、イエス様の教えをしっかりと心に刻み、神様の助けを認識し、はっきりとした頭で現実的に直面している問題に取り組めば、そういう事にはなりません。

 

また、クリスチャンである人達は、その責任を果たしながら生きなければなりません。私達がこの世で生きているうちに言った言葉、考えた事、行動、全ては私達が死んだ後神様の御前で一つ一つ明らかにされます。クリスチャンとして恥じる事の無い生き方をする事ができていますか?

 

では、クリスチャンの生き方として大切な事とはなんでしょうか?

 

1、聖書を読む事

マタイ4章4節 

MAN SHALL NOT LIVE BY BREAD ALONE, BUT BY EVERY WORD THAT PROCEEDETH OUT OF THE MOUTH OF GOD.

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。

 

2、かかさず祈る事

第一テサロニケ5章17節

PRAY WITHOUT CEASING.

絶えず祈りなさい。

 

3、教会に通う事

ヘブル書10章25節

NOT FORSAKING THE ASSEMBLING OF OURSELVES TOGETHER, AS THE MANNER OF SOME IS; BUT EXHORTING ONE ANOTHER: AND SO MUCH THE MORE, AS YE SEE THE DAY APPROACHING.

ある人達の習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。

 

4、福音を伝える事

箴言11章30節

HE THAT WINNETH SOULS IS WISE.

知恵ある人は多くの魂をとらえる。

 

5、神様のために生きる事

神様の与えて下さった才能や特技を、神様の仕事のために使っていますか?

 

もしかしたら、今日がこの地球上で生きる最後の日になるかもしれません。まだ救われていない人は、イエス·キリストに救いの恵みをお願いしましょう。救われている人達は、クリスチャンとして恥じない生き方ができるように頑張りましょう。