2008年8月31日

選択のススメ

田舎でのんびりと主婦をしているもので、たっぷりある時間を利用して部屋のインテリアを飾る絵などを描いています。(って一応イラストレーターが仕事のはずなんですが。)試作として、Salvation Armyの店で買った古い木製の壁掛けの上に、大好きなHymnとそれに合った聖句をあしらった絵をペイントしてみました。ただいま第2作目を製作中。家の壁にほとんどなにも飾っていないので、せっせと絵を描いては飾りたいと思います。かわいいアメリカン・ハウスにしたいし。アメリカの奥様たちは、デコレーションとか大好きで、しかも皆けっこうセンスがいい。ロンドンのデザインの学生達なんかよりも、ずっとセンスのいい品を取りそろえ、しかも自分たちで作っちゃったりするんですね。そんなわけで、うちもあんまり壁が空っぽだと「あら、殺風景な家ね。」という印象になってしまうので、努力したいとおもいます。
ついでにもう一つ、家の名札もつくってみました。一応、木彫りです。色をどうしようかと考えたんですが、まあ、折角なのでアメリカらしくPatriot的な色あいに。というか、さりげに慶應カラーなんですが。
この名札の下にあるJOSH 24:15というのは、旧約聖書のヨシュア記、第24章15節を指します。

わたしとわたしの家は主に仕えます。As for me and my house, we will serve the LORD. という部分です。」よく、クリスチャンのお家に掲げてある言葉なんですよ。ヨシュア記は、モーセが死んだ後、イスラエルの民を今度はヨシュアが神様の御言葉に従って導いていくお話なのですが、この24:15の部分では、ヨシュアが、すぐに偶像崇拝に陥りがちな民に、「君たちはどの神を拝むつもりかちゃんと選びなさい」と悟し、心を決めさせている所です。もちろん、本物の神様は1人しかいないのですが、旧約聖書の時代から、人々はいろいろな神の像やら神殿やらを造り出してはそれら偶像を拝んでいたんですね。イスラエルの民は、唯一本当の天の神様に導かれていたのですが、目に見えないものだから、他国の人々の偶像を彼らも崇拝しはじめ、それを見かねた神様は、彼らを敵の手に渡したり、罰を与えたりするわけです。それでも、彼らが反省するとまた助けだして、とそんなくり返しが見られます。

ヨシュア記 24:14-15 「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主につかえます。」
Now therefore fear the LORD, and serve him in sincerity and in truth: and put away the gods which your fathers served on the other side of the flood, and in Egypt; and serve ye the LORD. And if it seem evil unto you to serve the LORD, choose you this day whom ye will serve; whether the gods which your fathers served that were on the other side of the flood, or the gods of the Amorites, in whose land ye dwell: but as for me and my house, we will serve the LORD.

ヨシュア 24:16-18 民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、私たちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、私たちの行く先々で、また私たちが通ってきた全ての民の中で、私たちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民を私たちのために追い払ってくださいました。私たちも主に仕えます。この方こそ、私たちの神です。」
And the people answered and said, God forbid that we should forsake the LORD, to serve other gods; for the LORD our God, he it is that brought us up and our fathers out of the land of Egypt, from the house of bondage, and which did those great signs in our sight, and preserved us in all the way wherein we went, and among all the people through whom we passed: and the LORD drave out from before us all the people, even the Amorites which dwelt in the land: therefore will we also serve the LORD; for he is our God.

19-20 ヨシュアはしかし、民に言った。「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる」
And Joshua said unto the people, Ye cannot serve the LORD: for he is an holy God; he is a jealous God; he will not forgive your transgressions nor your sins. If ye forsake the LORD, and serve strange gods, the he will turn and do you hurt, and consume you, after that he hath done you good.

21-23 民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」というと、ヨシュアは民に言った。「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなた達自身である。」彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
And the people said unto Joshua, Nay; but we will serve the LORD. And Joshua said unto the people, Ye are witnesses against yourselves that ye have chosen you the LORD, to serve him. And they said, We are witnesses. Now therefore put away, said he, the strange gods which are among you, and incline your heart unto the LORD God of Israel.

というわけで、ここでイスラエルの民は本当の神様を信じることに決めるのですが、また時がたって列王記上(1Kings)の時代になると、ふたたびイスラエルの王たちは神様から離れて、偶像であるバアルというものを拝んでいます。そして、バアルを崇める様々な預言者達も現れ、魔術などを用い人々を惑わしているのですが、主の預言者であるエリヤ(Elijah)が本物の神様はバアルではないということを実証するために、このバアルの預言者達と対決します。

列王記上18:21 エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民は一言も答えなかった。エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ1人、主の預言者として残った。バアルの預言者は450人もいる。我々に2頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに1頭の雄牛を選ばせて、割いて薪の上にのせ、火をつけずにおかせなさい。私も1頭の雄牛を同じようにして、薪の上にのせ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名をよぶことにしよう。火を持って答える神こそ神であるはずだ。」

ということで、まずバアルを崇める預言者たちは必死にバアルに祈るのですが、当然なにも起きません。また、彼らはその習わしに従って、大声をあげたり、剣や槍で体を傷つけて血を流し、狂ったように叫び続け、、となんだか物騒なことになります。

詩編115:2-8 なぜ国々は言うのか「彼らの神はどこにいる」と。私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。国々の偶像は金銀に過ぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声をだせない。偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる。
Wherefore should the heathen say, Where is now their God? But our God is in the heavens: he hath done whatsoever he hath pleased. Their idols are silver and gold, the work of men's hands. They have mouths, but they speak not: eyes have they, but they see not: They have ears, but they hear not: noses have they, but they smell not: They have hands, but they handle not: feet have they, but they walk not: neither speak they through their throat. They that make them are like unto them; so is every one that trusteth in them.

と、このように偶像とは人間が造りだしたものなので、けっきょくバアルなんていう神様は存在しないので、いくら呼んでも出てこないわけです。一方エリヤはそんな様子を見てから、主に祈りをささげると、天から主の火が下ってきて、民衆は皆主のみが神である、と立ち返るというお話です。

この箇所を読むと、いつも私は世界不思議発見やNHKスペシャルで見たアフリカの原住民とかが体に鉄棒とか突き刺しながら、トランス状態に陥って神と交信する、なんていうシーンを思い出すんですが、ああいうシャーマニズムって、どうみても悪魔にとりつかれているようにしか見えないんですが・・・。なんか怖いじゃないですか、皆目とか血走ってるし、泡ふいて血流してるし。このシーンって、すごくこのバアルの預言者たちがやっていたことと重なって見えます。

まあ、それはさておき、ここでの重要ポイントは、「選択」することです。私たちは、大きなことから小さなことまで、毎日いろいろな「選択」に直面します。朝ご飯をパンにするか、シリアルにするか、から、大学をどこに行くか、誰と結婚するか、車・家を買うかどうするか・・・等々。ここでは、「自分はどの神様に仕えるか」の選択です。これって、1番大事な事なんですが、現代だとどこの国にいっても「なんとなくクリスチャン」や「なんとなく仏教徒」「なんとなくムスリム」=「別にどれでもいいんだけどさ、うち、祖父母がOOだからー」という人がすごく多いです。ちなみに、そういう人はその宗教の信仰の内容すら知らない人が大半です。私自身、普通に寺に家代々のお墓があって(仏教)、正月はおみくじひいてお祈りして(神道)、なんとなく先祖の霊が守ってくれているらしいと信じ(ご先祖崇拝)、神様ってどこにいるんだろうと天使の飛び交う天国を想像し(キリスト教)、そんなことをしながらも、最終的には深く神様について考えない、というような感じで育ちました。神様の存在を、自分が困った時とかしか求めないし、誰に祈っているのかきちんと考えたこともありませんでしたね。しかし、どの神様に祈っているのか、というのはものすごく大切なことです。そして、その神様は本物であるのか、というのを知っていることは必要不可欠です。だって、自分が病気になったときに、偽物のお医者さんにはかかりたくないですよね。それと一緒で、自分は何を信じているのか、確認することって大事です。

マルコの福音書 8:36-37 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
For what shall it profit a man, if he shall gain the whole world, and lose his own soul? Or what shall a man give in exchange for his soul?

この世の価値観は、財産や所有物をいかに増やしお金持ちになるか、ということにかなり傾いています。けれど、聖書はこの世の後の話しをしています。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」私たちの魂は、肉体が死んだ後必ず天国か地獄かに行きます。それは、永遠の命を手にするか、永遠に燃える火の中で苦しみ続けるかの選択です。しつこいようですが、天国にいく道はたったひとつです。本物の神様を信じ、イエス・キリストを通して主に罪の赦しを乞い、天国への道へ進ませていただくことだけです。聖書にはっきりと記されたこの真実は、とても単純なことのようで、多くの人が「選択」を誤るんですね。聖書にある主はこんな神様です。

イザヤ書45:18-19
神である方、天を創造し、地を形作り造り上げて、固く据えられた方、混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形作られた方、主はこう言われる。わたしが主、ほかにはいない。わたしは隠れた所で、地の闇の所で語ったことはない。ヤコブの子孫に向かって混とんの中にわたしを求めよ、と言ったことはない。わたしは主、正義を語り、公平を告知する者。

For thus saith the LORD that created the heavens; God himself that formed the earth and made it; he hath established it he created it not in vain, he formed it to be inhabited: I am the LORD; and there is none else. I have not spoken in secret, in a dark place of the earth: I said not unto the seed of Jacob, Seek ye me in vain: I the LORD speak righteousness, I declare things that are right.

45:20-21 国々から逃れてきた者は集まって、共に近づいてくるがよい。偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ、救う力の無い神に祈る者。意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ、以前から述べていたかを。それは主である私ではないか。私をおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない
Assemble yourselves and come; draw near together, ye that are escaped or the nations: they have no knowledge that set up the wood of their graven image, and pray unto a god that cannot save. Tell ye, and bring them near; yea, let them take counsel together: who hath declared this from ancient time? Who hath told it from that time? Have not I the LORD? And there is no God else beside me; a just God and a Saviour; there is none beside me.

私の信じる神様、主は唯一イエス・キリストを通して人間に魂の「救い」を与えて下さる神様です。今、あなたが信じている神様は、死後にあなたの魂を天国へ導いてくれると約束してくれていますか?それも、自分たちの罪を肩代わりしてくれて、あくまでも贈り物としてその偉大な業を人間たちに見せてくれたでしょうか?今、自分が信じている神様が誰なのか、一度きちんと調べてみてください。そして魂の救済を求めるならば、あなたもいまが「選択」する時です!

2008年8月28日

The Pilgrim's Progress

今日は超オススメの本をご紹介。John Bunyan作の名作Pilgrim's Progress.邦訳バージョンは「天路歴程」という題名です。日本語訳の方はまだ読んでみていないのでどの訳がオススメかは言えないのですが、この本は17世紀のイギリスのBaptistの牧師さんが、聖書そのままの福音を伝えていたために捕まり、牢屋に入れられている間に書いたもの。(政治がらみで宗教も思想操作のためにねじ曲がっている時代だったのでしょう) この本は、クリスチャンの信仰の成長を寓話で、聖書の御言葉にそってものすごく巧みに描写したもので、本当におもしろいです。" City of Destruction" (破滅の町)に住んでいたChristian(クリスチャン:主人公)が、さまざまな困難をくぐり抜けながら"Celestial City"(天の都)にたどり着くまでの物語。聖書の内容をしっていればいるほど、またクリスチャンの方は自分の救いや成長の体験と照らし合わせ、納得しながら読めると思います。注釈に「聖書のこの箇所」とかヒントがでているので、知らない人もついでにお勉強もできていいかも。是非読んでみてください。

Pilgrimついでに、今日はFanny Crosby作の"The Pilgrim's Journey"という曲をご紹介。Cyberhymnalからです。

http://www.cyberhymnal.org/htm/p/i/pilgrimj.htm

The Pilgrim's Journey
By Fanny Crosby , music by W.Howard Doane

Slow to anger, full of kindness,
Rich in mercy, Lord, Thou art,

Wash me in Thy healing fountain,
Take away my sinful heart.

-Refrain-
I would go the pilgrim's journey,
Onward to the promised land;

I would reach the golden city,
There to join the angel band.

Thou wilt never, never leave me,
If I give myself to Thee,

Teach, O teach me how to praise Thee,
Tell me what my life should be.

Refrain

May Thy ever gracious spirit,
Lead me in the way of truth,

May I learn the voice of wisdom,
In the early days of youth.

Refrain

O! how sweet to rest confiding,
On Thy Word that cannot fail,

Strong in Thee, whate'er my trials,
Through Thy grace I must prevail.

Refrain

(意訳)
忍耐強く、慈しみに満ち、恵みに富んだ主よ、貴方の癒しの泉で私を洗い、
この罪深い心を取り去ってください。

—繰り返しー
私は旅人の道をゆく、約束の土地へ向けて進む。
その黄金の都市にたどり着き、天使たちの音楽隊に加わるのだ

主よ、貴方は決して私を見捨てはしない、私が自身をあなたに捧ぐなら。
主よ、どうぞどのように貴方を讚えるべきか教えてください、
そして私の人生とはどうあるべきかを。

あなたの慈悲深い聖霊が、私を真実の道へお導きくださるように。
まだ若いうちに、あなたの知恵の声をよく学べますように

あなたを信頼し安らぐ甘い時、あなたの御言葉の上に失敗はない。
どのような困難があろうとも、あなたの慈しみの中で力強く、打ち勝たねばならない。


Pilgrim's Progressの物語の中心軸となるのもそうですが、クリスチャンとしての歩みのなかで最も重要なものはFAITH(信頼、信仰)です。それも、「イエス様による救い」に対する信頼が鍵です。

エフェソ2:8-9 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
For by grace are ye saved through faith; and that not of yourselves: it is the gift of God: not of works, lest any man should boast.

天国へ行く道は、決して「善い行い」をたくさんして、天秤に載せて「悪い行い」よりも上回ったらいかれる、というものではありません。上の聖句はそのことをはっきりと伝えています。なぜなら、どんなに人間の目にとって「善い行い」も、神様の目にとってはすべて等しく卑しいものだからです。

イザヤ書64:5 私たちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった。私たちは皆、枯れ葉のようになり、わたしたちの悪は風のように私たちを運び去った。
But we are all as an unclean thing, and all our righteousnesses are as filthy rags; and we all do fade as a leaf; and our iniquities, like the wind, have taken us away.

テトスへの手紙3:5-7 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、私たちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望通り永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
Not by works of righteousness which we have done, but according to his mercy he saved us, by the washing of regeneration, and renewing of the Holy Ghost. Which he shed on us abundantly through Jesus Christ our Saviour; that being justified by his grace, we should be made heirs according to the hope of eternal life.

信仰といっても、空虚な信仰や間違った信念を持っていても意味がありません。例えば、あるカルトの人たちは「救い」とはイエス様の十字架を信じること(でも自分の罪を認めて悔い改めるという意識はあまりない)+善い行いをすること(しかもノルマが決まっていたりする)+団体の活動のためにいくら献金することetc etc,,などなどいろいろ付加されていたりします。マタイの福音書にこうあります。

マタイ7:21-23 「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によっていろいろ奇跡を行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
Not every one that saith unto me, Lord, Lord, shall enter into the kingdom of heaven; but he that doeth the will of my Father which is in heaven. Many will say to me in that day, Lord, Lord, have we not prophesised in thy name? and in thy name have cast out devils? And in thy name done many wonderful works? And then will I profess unto them, I never knew you: depart from me, ye that work iniquity.

神様は、人間の驕り高ぶりを好みません。救いが、「善い行い」によるものであれば、「善い行い」をたくさんした人ほど、天国にいけることになります。ということは、たとえば寝たきりで動けない人とかは、チャンスが減るわけで、そういう人はどんなに求めても天国へ行けないなんていうことになっちゃいます。決してそうではありません。「救い」は、あくまでも自己の罪深さを心から反省し、イエス様に赦しと罪からの救済を乞うことによってなされます。聖書からの例をみてみましょう。

ルカの福音書、23章26−43節までを読んでみてください。これは、イエスが2人の犯罪人と共に、十字架にかけられているシーンです。

ルカ23:39-43 十字架にかけられていた犯罪人の1人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう1人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
And one of the malefactors which were hanged railed on him, saying, If thou be Christ, save thyself and us. But the other answering rebuked him, saying, Dost not thou fear God, seeing thou art in the same condemnation? And we indeed justly; for we receive the due reward of our deeds: but this man hath done nothing amiss. And he said unto Jesus, Lord, remember me when thou comest into thy kingdom. And Jesus said unto him, Verily I say unto thee, To day shalt thou be with me in paradise.

ここで、何が起きているかというと、要するに2人の罪人がイエス様の両側に同じように十字架にかけられていて、1人はイエス様をののしる一方、もう1人はイエス様が神であると信じ、また自分の行った罪とそれに対して受けている罰を認め、せめて天国にお帰りになるときに、私のことも覚えていてください、とお願いしています。その瞬間、この罪人はイエス様により救われました。そのため、「わたしと一緒に楽園にいる」と言ってもらえたわけです。その後、数分後には皆十字架の上で死んでしまうわけですから、この罪人は、「善い行い」をする時間もなければ、「洗礼」を受けるチャンスもありませんでした。でも「救われている」わけです。前に、「洗礼」を受けること=「救い」ではないということも述べましたが、この話しはそのよい例でもあります。

詩編145:8-12 主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ、あなたの主権の栄光を告げ、力強い御業について語りますように。その力強い御業と栄光を、主権の輝きを人の子らに示しますように。

The Lord is gracious, and full of compassion; slow to anger, and of great mercy. The Lord is good to all: and his tender mercies are over all his works. All thy works shall praise thee, O Lord; and thy saints shall bless thee. They shall speak of the glory of they kingdom, and talk of they power; to make known to the sons of men his mighty acts, and the glorious majesty of his kingdom.

神様は、恵み深い方なので、私たちがイエス・キリストを通して依り頼むことによって、その恩恵にあずかることができます。しかし、Faith, 信仰のない思いは無意味です。信仰なくしては、私たちは神様に喜んでいただくことはできないからです。

ヘブライ人への手紙 
11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、したがって見えるものは、目にみえているものからできたのではないことが分かるのです。
11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じなければならないからです。

Hebrews 
11:1 Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.
11:3 Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear.
11:6 But without faith it is impossible to please him: for he that cometh to God must believe that he is, and that he is a rewarder of them that diligently seek him.


天国へ行く道は、たった1つ、イエス・キリストの救いの奇跡を信仰をもって信じ、自分の罪の反省と、救済に依り頼むことです。けっして「どれだけ善いことをしたか競争」ではないので、よく覚えていてくださいね!!



2008年8月25日

ロデオ到来




Altusの町に、今度はロデオがやってきました。だいぶ前にダニーから、「8月の終わりにロデオが来るらしいよ」と聞いてはいたのですが、ロデオと言われて私が想像したものは、たまにコメディアンとかが乗っている、上下に動く機械仕掛けの牛のお尻みたいなものでした。しかし、ここは西部劇本場のオクラホマ。どうやら特設会場が町外れに設けられ、たくさんのロングホーンや馬、そしてカウボーイたちが来るらしいのでした。昨日は軍の感謝デーで、朝は基地内をロングホーンの牛さんたちと馬に乗ったカウボーイたちが練り歩き、夜には始まりました、ロデオ。今回もダニーが取材だったので、なるべくカメラワークがよく、他のお客様に邪魔にならない位置でのんびりと見ておりました。流石に本場は違いますね、ものすごい数のカウボーイ・カウガール達が登場。彼ら、リアルに職業カウボーイです。暴れ馬のお尻に乗り続けるロデオや、馬から飛び降りて小さいロングホーンを組み伏せる競争など迫力満点でした。将来立派なカウボーイズ&ガールズになるだろうと思われる、5歳くらいの少年少女も颯爽と馬を乗りこなしていましたよ。すごいなぁ。しかしやはりここはクリスチャンなバイブル・ベルト。ロデオも始まる前に、司会者が神様に参加者たちの安全とイベントの成功をお祈りしておりました。

馬にのる、というとやはり颯爽と駆け回る自由さ、みたいなものを想像します。私はあまり動物達とお友達になるタイプではないので、当然乗馬などできないのですが。人間って本当に「自由」というものを求めますよね。でも、本当の「自由=Freedom」って何なんでしょう?最近は「自由=Freedom=Rebellion=反抗」みたいな世の中になっていて、とても嫌ですね。こういうのは、ファッションや音楽に顕著に現れていますが、例えば女性のミニスカートの登場とかって、60年代に遡りますがロンドンのフェミニストのゲイのファッションデザイナーの女の人が、「これからは女性も昼間からセックスする時代」という題目の元につくったものらしいです。私はこれを聞いて、なんか下品で嫌だなあ、それ、とすごく思ったんですが。娼婦じゃないんだから。けれど、彼女にいわせれば、これは女性解放、みたいな。でもこういう動きが、今何を招いているかというと、アメリカのティーン14−19歳の女の子の4人に1人はSTDを持っているという現実。日本も他人事じゃないと思いますよ。このあいだ、インターネットでニュースを読んでいて、いまどきは小学生用の女の子の漫画がエロ漫画化しているという記事を読んで、かなり衝撃をうけましたね。私はドラえもんとかアサリちゃん、ときめきトゥナイト、ねこねこファンタジーなどその他様々な漫画を読んで育ちましたが、青年誌以上に異常な内容のエロ漫画が小学生少女用漫画雑誌に登場することは当時ありませんでしたよ(涙)。そのニュースに対する漫画作者のコメントに、「想像の世界なんだからいいじゃないですか」みたいなことが書いてあって、人間の性の汚い世界を知っている大人が読むなら「想像の世界」ですむのかもしれないけれど、まだ何もしらない純真な小学生が読んだら、それは「想像の世界」ではなく、彼らの「現実」になっていくことが分からないのか?と吐き気がするくらい嫌な気分になりましたね。作者本人よりも、その作品を雑誌に載せている編集者が考え直すべきだと思いますが。ロンドンにいた時も、どう見ても14歳位の子が妊娠してたり、もちろん結婚なんかしていないわけで。これって「自由」っていうんじゃなく、「自己破壊」ということに気がつかないのかな?と思います。音楽をやりながら、麻薬とかお酒の中毒になっている人たちもそうですよね。「自由=逃避」が「自己破壊」であることに喜びを感じている、というか。そういうのをいろいろロンドンで目の当たりにしてきたので、本当に考えちゃいます。

さて、では本当の自由に関する、ヒントはどこにあるのでしょうか?「自由」を歌ったよいHymnがあるので、ご紹介。メロディが見つからなかったのですが、歌詞が深いので一緒に考えてみましょう。

I’m Free
W.J.G. and Gloria Gaither & William J.Gaither

So long I had searched for life’s meaning
Enslaved by the world and my greed
Then the door of my prison was opened by love
For the ransom was paid, I was freed

(Repeat)
I’m free from the fear of tomorrow
I’m free from the guilt of the past
For I’ve treaded my shackles for a glorious song
I’m free! Praise the Lord! Free at last!

I’m free from the guilt that I carried
From the dull empty life I’m set free
For when I met Jesus, He made me complete
He forgot the foolish man I used to be

(Repeat)

(意訳)
長い間私は人生の意味について考えてきた
この世界と自分の欲望の奴隷になって
ところが私の檻の扉が愛によって開かれた
代償が払われて、私は自由の身になった

(繰り返し)
私は明日に対する恐怖から自由になった
過去の罪から自由になった
勝利の歌のために、私を締めつけていた枷を踏みつけて
私は自由になった!主を賛美しよう!とうとう自由になった!

ずっと背負ってきた罪責感から自由になった
退屈で空っぽの毎日から解放された
イエス様に出会った時、彼は私を完全にしてくださった
彼は以前の愚かな私を忘れ去ってくださった

この曲は、罪から、世界から解放された自由、神様の救済による自由を歌っています。神様を知らずに世の中を生きていると、人間はその欲望や、しがらみ、人間関係、仕事、財産、恐怖、空虚感、忙しさ、そういったものにがんじがらめになっています。つまり、自分で作り上げた檻の中に入って出られなくなっている状態です。1番目の歌詞の後半にある「愛」とは神様、イエス様の愛で、「代償が払われて」というのは彼の十字架の上で支払った、私たちの罪に対する代償です。

ヨハネ3:16-17 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life. For God sent not his Son into the world to condemn the world; but that the world through him might be saved.

では、イエス様の救いは、なぜ私たちを自由にしてくれるのでしょうか?自由とは何を指すのでしょうか。

ヨハネ8:31-32 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
Then said Jesus to those Jews which believed on him, If ye continue in my word, then are ye my disciples indeed; And ye shall know the truth, and the truth shall make you free.

ヨハネ8:34-36 「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」
Verily, verily, I say unto you, Whosoever committeth sin is the servant of sin. And the servant abideth not in the house for ever, but the Son abideth ever. If the Son therefore shall make you free, ye shall be free indeed.

ここでいう自由とは、自己に内在する罪からの解放です。これは、自分が罪により創り出した檻により、自ら罪の奴隷状態になっていたものを、「子」つまりイエス様がその罪を取り除くことによって、檻の扉を開けて私たちを解放してくれる、ということです。「罪の奴隷」とは、簡単な例でいえば、タバコを吸い始めたら、どんどん量も増えて、タバコを自由意志で吸っていたものが、いつのまにかなしではいられないようになったり。同じく、なしではいられない麻薬の禁断症状とか、体を自分でコントロールできなくなっている状態ですね。仕事中毒とか、不倫とか、援助交際とかも然り。

ガラテヤ信徒への手紙5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
Stand fast therefore in the liberty wherewith Christ hath made us free, and be not entangled again with the yoke of bondage.

さて、イエス様を信じて救われたあと、その罪からの自由の中でどのように生きるべきでしょうか。下記にでてくる「肉=Flesh」とは人間の「carnal=肉欲的、現世的」な性質を指し、「霊=Spirit」とは神様の与えて下さる聖霊の導きに従う生き方を指します。

ローマ 8:1-4 従って、今や、イエス・キリストに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
There is therefore now no condemnation to them which are in Christ Jesus, who walk not after the flesh, but after the Spirit. For the law of the Spirit of life in Christ Jesus hath made me free from the law of sin and death. For what the law could not do, in that it was weak through the flesh, God sending his own Son in the likeness of sinful flesh, and for sin, condemned sin in the flesh: That the righteousness of the law might be fulfilled in us, who walk not after the flesh, but after the Spirit.

「律法」とはモーセの十戒を指しますが、人間はこの現世に肉体を持って生きている限り、それらを全て守ることは不可能なので、イエス様を信じ、霊によって歩むようになると、その律法の要求を肉でではなく、霊によって満たすことができる、ということです。

ローマ 8:5-7 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。

For they that are after the flesh do mind the things of the flesh; but they that are after the Spirit the things of the Spirit. For to be carnally minded is death; but to be spiritually minded is life and peace. Because the carnal mind is enmity agains God: for it is not subject to the law of God, neither indeed can be.
 
ガラテヤ信徒への手紙5:16-17 霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望む所は霊に反し、霊の望むところは肉に反するからです。肉と霊が対立しあっているので、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
This I say then, Walk in the Spirit, and ye shall not fulfill the lust of the flesh. For the flesh lusteth against the Spirit, and the Spirit against the flesh: and these are contrary the one to the other: so that ye cannot do the things that ye would.


5:18−21 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もっていいますが、このようなことを行うものは、神の国を受け継ぐことはできません。
But if ye be led of the Spirit, ye are not under the law. Now the works of the flesh are manifest, which are these; Adultery, fornication, uncleanness, lasciviousness, idolatry, witchcraft, hatred, variance, emulations, wrath, strife, seditions, heresies, envyings, murders, drunkenness, revellings, and such like: of the which I tell you before, as I have also told you; in time past, that they which do such things shall not inherit the kingdom of God.

5:22-25 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, longsuffering, gentleness, goodness, faith, meekness, temperance: against such there is no law. And they that are Christ’s have crucified the flesh with the affections and lusts. If we live in the Spirit, let us also walk in the Spirit.

私たちの祖父母の時代には当たり前だったような「モラル」が、メディアやMTVを通してどんどん破壊されていっている現代で、自分の子供が育つころには「世の中の常識」はますますひどくなっているんだろうと思うと心が痛みます。つくづく、自分の子供たちには、「世の中のインモラルな常識」ではなく、「神様のモラルある常識」を学ばせて育てたいと思います。




2008年8月20日

ファイヤー・ファイターズ

先週末に、Altusで消防士さんの力比べ(?)大会がありました。アメリカ全土のいろいろな土地をまわって行われるイベントらしく、今回はたまたまAltusで開催されたようです。ニューヨークからアラスカまで、アメリカ全土から優れた消防士さんたちが集り、そのスピード、筋力、耐久力を競うレースでした。なぜこんなものを見に行ったかというと、ダニーの軍でのお仕事がブロードキャスターなので、Altusの空軍からエントリーしているエアマンの取材ということでした。やはり軍の人たちはトレーニングの仕方が違いますね。取材をした彼は、まったく足取り乱れることなく、素晴らしいスピードでゴールしていました。このレースは相当きついようで、途中で酸素不足に陥ってリタイアしている人もいましたよ。なにしろ、消防服、ガスマスクをフル装備で(重たそう+暑いだろうに+呼吸が大変)数キロある折り畳まれたホースを肩に担いでまず5階建て分の階段をダッシュして上ります。頂上についたら、20キロの重りを地上から5階まで引き上げ、ダッシュして下ります。その後、さらに重たい重りをハンマーでたたいて1mほど動かした後、25m障害物をよけながら走り、消火用ホースを引っ張りながら25m走ってもどり、的に向かって放水。的にあたったら、最後に80キロの人間ダミーを引きずりながらまた25m後ろ向きで走って、ゴール。これ皆2分くらいでクリアしちゃうんですよ。さすが、プロ。昔ウエイト・リフティングをやっていて力があると自分では思っているダニー君も、「これはできない!人間業じゃないな」とひたすら感服しておりましたよ。こんなことを火事の現場でやっているんだから、この人たちは相当な精神力+体力ですね。ひたすら頭が下がります。女の消防士さんもいて、ちゃんとゴールしてました。なんてパワーなんでしょう。


さて、そんなわけで、今日はレスキュー絡みの歌をご紹介。

メロディはCyber Hymnal からどうぞ。曲の書かれたいきさつも紹介されているので、是非読んでみてください。

http://www.cyberhymnal.org/htm/r/e/rescuetp.htm

Rescue the Perishing
By Fanny J. Crosby & William H. Doane

Rescue the perishing, care for the dying
Snatch them in pity from sin and the grave
Weep o'er the erring one, Lift up the fallen
Tell them of Jesus the mighty to save

(Chorus)
Rescue the perishing, care for the dying
Jesus is merciful, Jesus will save.

Tho' they are slighting Him, still He is waiting
Waiting the penitent child to receive
Plead with them earnestly, plead with them gently
He will forgive if they only believe
(Chorus)

Down in the human heart, crushed by the tempter
Feelings lie buried that grace can restore
Touched by a loving heart, wakened by kindness
Chords that are broken will vibrate once more
(Chorus)

Rescue the perishing, duty demands it
Strength for my labor the Lord will provide
Back to the narrow way, Patiently win them
Tell the poor wand'rer a Savior has died
(Chorus)



(意訳)
堕落している人たちを助けよう、死んでゆく人たちを。
憐れみをもって、罪と墓から救い出そう
不義の過ちを犯している者のために泣こう、落ちて行く者を引き上げよう
彼らに大いなる方、イエス様の御救いを伝えよう

(繰り返し)
堕落している人たちを助けよう、死んでゆく人たちを。
イエス様は憐れみ深い、イエス様は救ってくれる

彼らが無視していても、イエス様は待っていてくださっている。
悔悟した子供たちを迎え入れるために待っている
真剣に、そして優しく説き伏せている
彼らが信じれば、イエス様は赦してくださる

人間のハートの奥深く、怒気で壊れてしまったもの
深く墓に埋めた感情も、神様の思慮が治してくださる
愛に溢れたハートが心に触れ、その優しさに起こされる
一度切れてしまった弦も再びその音を取り戻す

堕落している人たちを助けよう、それは与えられた義務
働く強さはイエス様が与えてくださる
狭い道にもどり、根気よく彼らを説き伏せる
悲しくもさ迷う人たちに、救世主が死んでくれた話を伝えよう


この曲は、Soul Winningの曲ですね。ソウル・ウィニングとは、イエス様の救済の福音を知らずに、地獄に何の疑問も持たずに向かっている人たちに福音を述べ伝え、そのSoul(魂)を神様のもと(天国)へWinする(勝ち取る)ことです。

私は、横田のバプテスト教会にくるまでは、このようなはっきりとした福音を誰も伝えてくれなかったので、ソウル・ウィニングなどという言葉は聞いたことありませんでした。「救われている」ということと「クリスチャンである」と自称していることは、ちょっと違う二つのことです。残念ながら、世界中に自称「クリスチャン」でありながら、「救われていない」=「イエス様の救済の福音をはっきり理解していない」人がたくさんいます。なぜでしょうか?

まず、私の経験から言うと、最初に私が自称「クリスチャン」になった英国国教会系・今どき風教会では、「救い」に最も大切である、「イエス様との個人的な関係を樹立すること」よりも、「Sinner's prayer(罪人の祈りとでも訳すんでしょうか・・・)を言って、イエス様を信じ、洗礼を受けること」が救いである、というような曖昧な認識でした。つまり、心のそこから、というよりも、形式的なものが上回ってしまい、「なんとなくクリスチャン」になってしまうわけですね。ちなみに、洗礼を受けることが、私たちを「救う」のではありません。救いはあくまでも、「自分が罪人であると心から認識し、その罪をイエス様が十字架で死に、その血をもって贖い、私たちから取り去ってくださったと信じ、心からイエス様に赦しを乞い、神様との関係をとりなしてくださいとお願いする」ことによってなされます。

洗礼とは、あくまでもイエス様を信じ、救われた人がその象徴として、聖書の御言葉に従う第一歩として受けるものです。その理由は:

1. イエス様が使徒たちに命令したことである
マタイ28:19
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい

Go ye therefore, and teach all nations, baptizing them in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost.

2.イエス様自身も洗礼を受けている
マタイ3:13
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。

Then cometh Jesus from Galilee to Jordan unto John, to be baptized of him.

3. 信じて救われた者が、神様の御言葉に従順に従う第一歩である
使徒言行録 2:41
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受けた

Then they that gladly received his word were baptized.

さて、洗礼は、水の中に腰から下だけ浸かって立っている状態から、仰向けに牧師によって全身完全に水に浸けられ、再び起き上がることで完了します。これは、イエス様が十字架で死に、埋葬され、そして生き返ったことを象徴します。ですので、よくイタリア映画とかにあるような、「聖水」と呼ばれるものをおでこにチョッチョッとつける、というような「洗礼」は聖書に反します。聖書に出てくる洗礼のシーンの例を見てみましょう。

使徒言行録8:38
フィリポと宦官は2人とも水の中に入っていき、フィリポは宦官に洗礼を授けた。

And they went down both into the water, both Philip and the eunuch; and he baptized him.

マルコの福音書1:9-10
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ・・

And it came to pass in those days, that Jesus came from Nazareth of Galilee, and was baptized of John in Jordan. And straightway coming up out of the water…

どちらもしっかりと水に浸かっています。また、産まれたての赤ちゃんのおでこに聖水をふって「洗礼」したりするのも、聖書には一切例のないことなので、神様の御言葉と一致しないことに注意してくださいね!

さて、話しをSoul Winning に戻しましょう。救われているクリスチャンにとって、救われていない人たちに福音を述べ伝えることは聖書に書かれている命令のうちの1つです。以下の御言葉にあるとおりです。

マルコ16:15 
イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」
Go ye into all the world, and preach the gospel to every creature.

マタイ28:19-20 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
Go ye therefore, and teach all nations, baptizing them in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost: Teaching them to observe all things whatsoever I have commanded you: and lo, I am with you always, even unto the end of the world.

詩編126:6 種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は 束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
He that goeth forth and weepeth, bearing precious seed, shall doubtless come again with rejoicing, bringing his sheaves with him.

箴言 11:30 神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。
The fruit of the righteous is a tree of life; and he that winneth soul is wise.

救われているクリスチャンの皆さん、まだイエス様の救いを知らない人たちにきちんと説明ができるように聖書を勉強しましょう!

2テモテ 2:15 あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。
Study to shew thyself approved unto God, a workman that needeth not to be ashamed, rightly dividing the word of truth.

世の中にはたくさん嘘の福音を教える宗教があります。そういう人たちに出会った時に、きちんと聖書から真実だけを伝えられるようになりたいですね☆

ヨハネの手紙1 4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出てきているからです。
Beloved, believe not every spirit, but try the spirit whether they are of God: because many false prophets are gone out into the world.

2008年8月16日

嵐の予感

夕べは8時半過ぎくらいから夜中まで局地的雷雨でした。天気予報によると、これから数日間はずっとこんな感じで、突如雷雨が来るようです。昼間は穏やかに晴れているのですけどね。周りに高い木とかがまったくないので、雷は何に向かって落ちているんだろうと疑問です。避雷針とかも無いし。夕べは家のすぐ外にものすごい勢いで落ちていましたよ。いかにも電気ショック、といった感じのバリバリバリッという轟音が響いておりました。今はこうして立派な家に守られているけれど、ずーっと昔のインディアンたちとか、最初に馬車とテントだけで移住してきた人たちは一体この天気をどうやってしのいでいたのでしょうか。昔のパイオニアたちはタフさが現代人とはやはり違ったのでしょうね。

Hymnにも、人生の荒波を嵐にたとえて神様の愛を歌っている歌があるので、今日はその曲をご紹介。ピアノのサウンドはNorth Chester Baptist Church (http://www.nchbc.com/)のウェブサイトからです。

http://www.nchbc.com/Til%20the%20Storm.html


Till the storm passes by
By Mosie Lister

In the dark of the midnight have I oft hid my face
While the storm howls above me, and there's no hiding place
Mid the crash of the thunder, precious Lord, here my cry
Keep me safe till the storm passes by

(Chorus)
Till the storm passes over, till the thunder sounds no more
Till the clouds roll forever from the sky
Hold me fast, let me stand in the hollow of Thy hand
Keep me safe till the storm passes by

Many times Satan whispered, " There is no need to try,
For there's no end of sorrow, there's no hope by and by"
But I know Thou art with me, and tomorrow I'll rise
Where the storms never darken the skies

(Chorus)

When the long night has ended and the storms come no more
Let me stand in Thy presence, on that bright, peaceful shore
In that land where the tempest, never comes, Lord, may I
Dwell with Thee when the storm passes by


(意訳)
真夜中の暗闇の中で私はよく顔を隠した
隠れる場所もなく、嵐が真上でうなる間
落雷の落ちるさなかに、神様どうぞ私の声を聞いてください
嵐が過ぎるまで、守ってください

(繰り返し)
嵐が通り過ぎるまで、雷がやむまで
空から永遠に雲がなくなるまで
私を支え、あなたの御手の中に立たせてください
嵐がすぎるまで、守ってください

悪魔は何度も囁いた「頑張る必要はない、
この嘆きが終わることなど無いのだから、希望など存在しない」
けれど私はイエス様が私と共にいてくださることを知っている
そして明日私は嵐が二度と空を曇らせることのない朝を迎える

長い夜が空けて、嵐は二度とやってこない
神様どうぞ貴方の、明るく穏やかな浜辺に立たせてください。
嵐の来ること決してない、貴方の土地に
嵐が過ぎ去った後は、イエス様、貴方と共にいさせてください。



「人生の荒波」とかよくいいますが、人間として生きていると誰しも浮き沈みが激しく「自分は嵐のまっただ中にいるんじゃないか?」と感じる時期ってありますよね。もちろん感じ方は人それぞれなので、具体例は挙げづらいですが。

この曲は、この世界で生きている限り襲ってくる数々の嵐のなかで、イエス様だけが守ってくださる、と歌っています。そしてこの世から離れる時は、神様のいらっしゃる土地、天国にイエス様と共に住まわせてください、と言っているわけです。悪魔はいつでも私たちの耳に希望を失わせるような言葉を囁きます。けれど、しっかりとイエス様の救いを信じ、その希望の中に生きるかぎり、何度となく襲ってくる嵐から、イエス様の御手が守ってくれるんですね。

ちなみにこの曲のインスピレーションは、マルコの福音書4章35−41節にあるお話に基づいていると思われます。使徒たちとイエス様が福音を告げながら旅をしているところです。

マルコ4:35-41
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。他の舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」といった。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ。」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

And the same day, when the even was come, he saith unto them, Let us pass over unto the other side. And when they had sent away the multitude, they tool him even as he was in the ship. And there were also with him other little ships. And there arose a great storm of wind, and the waves beat into the ship, so that it was now full. And he was in the hinder part of the ship, asleep on a pillow: and thy awake him, and say unto him, Master, carest thou not that we perish? And he arose, and rebuked the wind, and said unto the sea, Peace, be still. And the wind ceased, and there was a great calm. And he said unto them, Why are ye so fearful? How is it that ye have no faith? And they feared exceedingly, and said one to another, What manner of man is this, that even the wind and the sea obey him?

いままでも何回か言っていますが、イエス様=神様です。全てをお創りになった神様にとって、風や波を操ることなど、なんでもありません。この時点で弟子たちは、ついこの間イエス様についていくことを決めた漁師など、普通の人間たちですから、イエス様が風や湖に命令し、従わせているのを目の当たりにして仰天しているわけです。これまでの時点で、何度となくイエス様は彼自身が神様であることを弟子たちに伝えてはいるものの、充分な信仰が育っていなかった彼らの頭には理解できなかったんですね。

イエス様=神様の絶対的な力は、人間から見るとすべて「奇跡」です。たとえば水をワインに変えたり(ヨハネ2:9)、パン5つと魚二匹から5000人に食べ物を与えたり(ヨハネ6:11)、海の上を歩いたり(マタイ14:15-25)、4日間もすでに死んでいたラザロを生き返らせたり(ヨハネ11:43)、目の見えなかった人に視力を与えたり(マタイ11:4-5)、悪魔に憑かれている人から悪魔を追い出したり(マルコ1:27)、と例を挙げるとキリがありません。これらの奇跡を目の前にして、ユダヤ人たちはイエス様が神様であると信じた人もいれば、信じなかった人もいます。もちろん、最も偉大な奇跡は、十字架にかかって死んだのち、生き返って弟子たちの元に姿を現したりしたことです。(ヨハネ20, 21)そして弟子たちの目の前で天国に上って行くわけですから、他に例がないですよね。

これらの奇跡をイエス様がわざわざ人間たちに見せたのは、理由があります。

ヨハネ5:36 わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。
But I have greater witness than that of John: for the works which the Father hath given me to finish, the same works that I do, near witness of me, that the Father hath sent me.

つまり、人間たちが父なる神を信じないので、イエス様が、父なる神の子として、人類の救世主として地上にやってきたことを証しするために、奇跡を示して見せたわけです。イエス様はこう言います。

ヨハネ5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている。
Verily, verily, I say unto you, He that heareth my word, and believeth on him that sent me, hath everlasting life, and shall not come into condemnation; but is passed from death unto life.

そして、信じない人たちに向かってこう言います。

ヨハネ5:37-40 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

And the Father himself, which hath sent me, hath borne witness of me. Ye have neither heard his voice at any time, nor seen his shape. And ye have not his word abiding in you: for whom he hath sent, him ye believe not. Search the scriptures; for in them ye think ye have eternal life: and they are they which testify of me. And ye will not come to me, that ye might have life.

ここで、イエス様はとても「宗教」に熱心だったユダヤ人たちに向かって言っています。大切なことは、「宗教」に夢中になって研究をしたり、討論をしたりすることではなく、神様が御言葉として届けてくださった聖書のメッセージを信仰をもって信じ、イエス様を通して救われることです。

あなたはもし今日死んだとしたら、かならず天国に行けるという確証がありますか?嵐が襲ってくる時に、守ってくれるイエス様の手を信じていますか?



2008年8月14日

ベイビーベッド購入

早いもので、もう8月も半ばですね。日本はお盆休みで交通渋滞している頃でしょうか。私はあと約1ヶ月で出産予定ということで、おなかの中でごろごろしているこの子が早く出てきてくれるのが楽しみです。そろそろ、子供部屋の準備もしないといけないよね、ということで、順番にWal☆Martでいろいろ買いそろえております。いやあ、子供ができるというのは、出費がかさむものですね!写真は、ベビーベッドです。これが子供が大きくなるにつれて、子供用ベッドになり、ソファになり、さらにダブルベッドにまで変身するという4in1ベッドのはずなのですが、2人で組み立てながら、「これ、ダブルベッドにしたときに、マットレスをおく真ん中の部分を別途購入しなきゃいけないんじゃないか?」という疑問を抱えました。また、先日のベイビー・シャワーでいただいた数々のベビー服を洗濯しながら、「子供ができる=ママの仕事量が超アップ」という現実をじわじわと感じ初めております。とはいえ、子供は神様からの贈り物ですから、楽しみです☆

詩編127:3 子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。
Children are an heritage of the LORD: and the fruit of the womb is his reward.


さて今日はまたYou Tubeのレトロなクリップから、素敵なHymnをお届け。
映像には他の曲も入ってますが。
http://www.youtube.com/watch?v=iNKJQWnRvp0

Singing I Go
By E.E. Hewitt & William J. Kirkpatrick

Singing I go along life's road, Praising the Lord, praising the Lord,
Singing I go along life's road, for Jesus has lifted my load.

The trusting heart to Jesus clings, nor any ill forebodes
But at the cross of Calv'ry sings, Praise God for lifted loads!

The passing days bring many cares " Fear not" I hear Him say
And when my fears are turned to prayers The burdens slip away

He tells me of my Father's love, and never slumb'ring eye,
My everlasting King above will all my needs supply.

When to the throne of grace I flee, I find the promise true
The mighty arms upholing me will bear my burdens too

Singing I go along life's road, Praising the Lord, praising the Lord,
Singing I go along life's road, for Jesus has lifted my load.


(意訳)

主を賛美して、この人生を歌いながら行こう
イエス様が私の重荷を持ってくれたから

どんな悪い予言があろうとも、私の心はイエス様を信じる
ゴルゴダの丘の十字架のもとで、重荷を背負った神に賛美!

過ぎていく日々は心配事を運んでくるけれど「恐れるな」という彼の声が聞こえる そしてわたしの恐れが祈りに替わるとき、重荷はすべて消えてなくなった

彼は私に眠ることなく父なる神の愛を教えてくれる 
天におられる永遠の王がわたしのすべての必要を満たしてくれる

恵みの御座に逃げる時、そこで約束は真実だと知る
偉大なる腕が私を支え、私の重荷までも担ってくださった。

この曲はいたってシンプルな内容です。イエス様が十字架の上で人類の罪を贖ってくださったことにたいする感謝を歌っています。自分は、イエス様の偉業を信じ、その瞬間から心の重荷がすべて自分の肩からイエス様へと移動し、日常に何かを恐れたりする時も、主に依り頼むと悩みも消え、歌いながら、主を賛美しながら日々を歩もう、という歌です。

ところで、今朝インターネットでFoxニュースを読んでいた所、なんとハマスのリーダ格の家の息子さんが、イスラムを辞めてキリスト教に改宗したという記事がありました。25年間ムスリムとして教育を受けた後、情報の閉ざされたイスラムの世界から目を開き、本当の神様を自分で探し求め、聖書を読み込んだそうです。そして、本当の神は妻が50人もいたような人間のモハメッドではなく、イエス・キリストであり、その贖いを通してのみ偉大な父なる神を知ることができると悟ったそうです。彼はイスラムの世界は情報が限られていて、95パーセントのイスラム教徒は自分たちが何を信じているのか実際は知らないだろう、と言っています。しかし、ハマスのリーダー格家の息子でありながら、こうして真実を追い求めイスラムから出家し、メディアを通してイエス様の救いの証しをするというのは、すごい勇気だと思います。興味のある方は、是非下の記事を読んでみてください。ちょっと長いけど。

http://www.foxnews.com/story/0,2933,402483,00.html

さて、今日はそんな神様を賛美するダビデの詩をお届け。

詩編103:1-5
私の魂よ、主をたたえよ。私の内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。私の魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何一つ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。

Bless the LORD, O my soul: and all that is within me, bless his holy name. Bless the LORD, O my soul, and forget not all his benefits: who forgiveth all thine iniquities; who healeth all thy diseases; who redeemeth thy life from destruction; who crowneth thee with loving-kindness and tender mercies; who satisfieth thy mouth with good things; so that thy youth is renewed like the eagle's.

この部分は、上の歌ともダブりますが、イエス様による救いの奇跡の結果を賛美しています。自分の罪を悔い改め、イエス様を通して救われ、神様との関係ができると、神様が与えて下さる恩恵を溢れるばかりに受け取ることができます。もっとも重大なことはもちろん、「罪の赦し=地獄からの脱却」ですが、ここでは病の癒しや、新たな活力を与えてくださることにも感謝しています。

103:10-13
主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠いほど、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

He hath not dealt with us after our sins; nor rewarded us according to our iniquities. For as the heaven is high above the earth, so great is his mercy toward them that fear him. As far as the east is from the west, so far hath he removed our transgressions from us. Like as a father pitieth his children, so the LORD pitieth them that fear him.

もし、イエス・キリストの救いがなく、人間が皆その悪にしたがって裁かれるとしたら、間違いなく全員地獄行きです。一人残らず。けれど、イエス様の救いを信じて、神様の慈しみを受けとると、神様は私たちから罪を取り除き、遠ざけてくださるわけです。こんな風に、父と子としての関係を、愛をもって築いてくださる神様を信じて本当によかったと思います。神様との関係を知らなかった時と、頼る主がいる今はまさに天と地の差です!毎日たくさんの感謝と賛美を捧げつつ、歌いながら生きていきたいですね。


2008年8月12日

平和のもらいかた

今朝は朝から雨がしとしと降っていて、静かな感じです。田舎に住んでいると、雨上がりの朝なんかは本当に「ああ、平和だなあ」と思います。上の写真は、ダニーのおばあちゃんが住んでいる、バージニアのSnowvilleという小さな村の風景です。実家に戻っている間、ダニーと泊まりにいきましたが、豊かな緑と、美しい丘、鳥のさえずり、どれをとっても空気に平穏が満ちている感じがしました。それにくらべると、やっぱりオクラホマは渇いていて、あんまり美しくないです。

東京に住んでいると、こういうふうにホッと息抜きができることって少ないです。とくに予定がなくても、なぜか生活がごちゃごちゃと忙しい感じになりがち。土地柄でしょうか、不思議なものです。皆さんは、心の平和を保てていますか?都市部に住んでいると、忙しいのが美学、みたいな思想がありますが、心の中まで忙しいばかりだと、できるはずの仕事の半分もできなかったりしますよね。心配事とか、気苦労とかで、頭と心がいっぱいになると、「息抜き」と称してお酒にはしったりする人も多いです。それで、心だけじゃなく体まで壊したりして悪循環、と。じゃあ、どうしたら心に平和って保てるんでしょうか?実は、聖書にはイエス・キリストがこんなふうに約束してくれています。


ヨハネ14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
PEACE I leave with you, my PEACE I give unto you: not as the world giveth, give I unto you. Let not your heart be troubled, neither let it be afraid.

フィリピ信徒への手紙 4:6-7 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
Be careful for nothing; but in every thing by prayer and supplication with thanks giving let your requests be made known unto God. And the peace of God, which passeth all understanding, shall keep your hearts and minds through Christ Jesus.


世の中には、昔から本当にいろいろな宗教やカルトが溢れていますが、こんなふうにはっきりと心の平穏を約束してくれていることって、他にあるでしょうか?ヨハネに書かれている「世が与えるような」平和というのは、つまり一時的なリラクゼーションとか、マッサージとか、そういうものだと思いますが、イエス様を信じて救われた人に宿る平和とは、何事にも左右されない、「人知を超える神の平和」です。聖書には、イエス様は平和の君Prince of Peaceであると書かれています。

イザヤ書 9:5−6 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。

For unto us a child is born, unto us a son is given: and the government shall be upon his shoulder: and his name shall be called Wonderful, Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace.


イエス様は、神様が世界をお造りになるまえから、神様と一緒にいるのですが、イザヤ書の上の聖句は、まだイエス様が地上に現れていない旧約聖書の時代に預言者イザヤによって書かれた予言です。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた、といっているのは、イエス様が天から人類の救済という神様の仕事を成し遂げるために、人間の姿をとって与えられることを示しています。そのイエス様の名が、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるということです。私たち人間には、頭では理解できないことがあります。イエス様は、神様ご自身であり、そして聖霊と三位一体です。それを人間的観点から理解しようとすると、よくわかりませんが、それは実はわからなくていいことなんです。そんなことを気にするよりも、神様の御言葉に信頼をおいて、それを信じること、そこから「救い」は素直に受け取ることができるのです。神様はこうも約束してくれています。


箴言3:5-6 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
Trust in the LORD with all thine heart; and lean not unto thine own understanding. In all thy ways acknowledge him, and he shall direct thy paths.

私たち人間は、自分の力でなんでもできると思いがちです。けれど、結局自分ではどうにもならないことって、ありますよね。神様は、人間ではなく、神様ご自身に何でも頼りなさい、と言ってくれます。すると、いままで何もうまく思うようにいかなかった目の前の道が、まっすぐに開けてくるものなのです。
イエス様は、私たち一人ひとりに、そうして神様と共に歩むことによって、心に満ちる平和を得なさい、と誘ってくれています。


マタイの福音書 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

Come unto me, all ye that labour and are heavy laden, and I will give you rest. Take my yoke upon you, and lean of me; for I am meek and lowly in heart: and ye shall find rest unto your souls.

イザヤ書 26:3-4 
Thou wilt keep him in perfect peace, whose mind is stayed on thee: because he trusteth in thee. Trust ye in the LORD forever: for in the LORD JEHOVAH is everlasting strength.

(神様に心を常に向けている人は、神様が完全な平和を与えてくださいます。それは、その人が神様を信頼しているからです。主を永遠に信頼しなさい、なぜなら、主は絶えることのない力を与えてくださるからです。)

休暇をとったり、エステにいったり、マッサージにいったり、いろいろ努力して心に平和を、と思っても、それらはすべて一時的で常に心に宿ってくれる神様の平和とは違います。肉体的なリラクゼーションと、精神的な救いは、まったく別物なのです。神様からいただく平和は、イエス様による救いによってのみ受け取ることができます。地上に生きている間、肉体的困難というのは、常にあるものだからです。

ヨハネ16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あながたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
These things I have spoken unto you, that in me ye might have peace. In the world ye shall have tribulation: but be of good cheer, I have overcome the world.

この、「わたしは既に世に勝っている」というのは、もちろんイエス様が言っていることなのですが、彼が神様のご計画通りに十字架にかかり人類の罪を洗い流したことにより、彼は既に世の罪、悪に勝っている、ということを言っています。そして、イエス様が私たちの罪をぬぐい取ってくれたことを信じる、というのは、イエス様の勝利を信じる、ということです。つまり、私たち自身も、イエス様を通して世の罪に打ち勝つことができる、ということなんですね。これが「救い」です。

第一コリント 15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
But Thanks be to God, which giveth us the victory through our Lord Jesus Christ.

世の中の宗教は、この罪への勝利、つまり救いは、どれだけ善いことをしたか、とかどれだけ宗教活動にお金をつぎ込んだかで得られる、といって人間たちを騙します。救いは、worksによっては得られるものはないのです。唯一、イエス・キリストを通してのみ、私たちが受け取ることができる神様からの贈り物、それが永遠の命です。つまり、天国への道は、唯一イエス様を通してのみ進むことができるんですね!

ヨハネ10:9 わたしは門である、私を通って入る者は救われる。
I am the door: by me if any man enter in, he shall be saved

ヨハネ14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
Jesus said unto him, " I am the way, the truth, and the life: no man cometh unto the Father, but by me".

カルト宗教は、「天国へ行く道は1つではない」といいます。聖書ははっきりと「天国へ行く道はたった1つである」と言っています。まだ信じていないひとは、信じて勝利と平和を受け取りましょう☆そういうわけで、今日はとても有名な聖歌Victory in Jesusをお届けします。

レトロな映像と共にどうぞ。You Tubeから。

http://www.youtube.com/watch?v=wcW-vnEc0gc&feature=related


Victory in Jesus
By E.M. Bartlett


I heard an old, old story, How a Saviour came from glory
How He gave His life on Calvary to save a wretch like me
I heard about His groaning, of His precious blood's atoning,
Then I repented of my sins and won the victory

(Repeat)

O Victory in Jesus, my savior forever
He sought me and bought me with His redeeming blood
He loved me ere I know Him and all my love is due Him
He plunged me to victory beneath the cleansing flood.

I heard about His healing, of His cleansing power revealing
How He made the lame to walk again and caused the blind to see
And then I cried " Dear Jesus, come and heal my broken spirit"
And somehow Jesus came and brought to me the victory

(Repeat)

I heard about a mansion He has built for me in glory
And I heard about the streets of gold beyond the crystal sea
About the angels singing and the old redemption story
And some sweet day I'll sing up there the song of victory

(Repeat)

(意訳)

私は、救世主がどうやって天国からやってきたかという古い古い話しを聞いた。
私のような哀れな者を救うためにその命をゴルゴタの丘で捨てたことを
彼の大切な血による贖いに伴う、彼の苦しみを聞いた
そして私は自分の罪を認め許しを乞い、勝利を手にしたのだ

(繰り返し)
イエス様による勝利、永遠のわたしの救世主よ
彼は私を見つけ、そしてその贖いの血を持って買ってくださった
彼は私を愛してくださった、わたしの愛はすべて彼に支払われるべきだ
彼はその溢れる浄化の力によって、私を勝利へと飛び込ませた

私は彼の浄化の力による癒しを聞いた
彼がどうやって不具の者を歩かせ、盲の目に光を与えたか
そして私は泣きついた「イエス様、どうかやってきて私の壊れた魂を癒してください」 
そしてどうしてかイエス様はやってきて、私に勝利を与えてくださった。

私は彼が私のために天国に建ててくださっている邸宅の話しを聞いた
そしてクリスタルの輝きをもった海のむこうに見える黄金の道の話しを聞いた 
また古いあがないの話しと、天使たちの歌声について。
そしてある甘い日に、私もそこで勝利の歌を歌うのだ。


2008年8月9日

滑る床。

今日は久しぶりに涼しく、気温も36度くらいまでしか上がらないようでとても気分よく一日を過ごしています。先日日本からの荷物の第二弾が届き、家中ほこりっぽくなっていたので、朝から大掃除をして隅々まで磨き上げました。しかし玄関から台所にかけてのタイル仕様の床を洗ったら、やけに滑りやすくなってしまいました。いままでは砂ぼこりで摩擦係数が高くなっていたのでしょうか??



今日はソウルフルな感じのHymnをお届け。私自身はDarcel McCoyのCDをもっていて、それがものすごくよいと思うのですが、オンラインでみつけられなかったので違うゴスペルグループの妥協音源です。↓

You Tubeから。前置きがやけにながいので、歌がはじまるまでちょっと我慢してください。

http://www.youtube.com/watch?v=SVTcjtvfpNI


My God is Real

By Kenneth Morris ©1944 Kenneth Morris

There are some things I may not know
There are some places I can't go
But I am sure of this one thing
That God is real for I can feel Him deep within

* Repeat *
My God is real, real in my soul
My God is real for He has washed and made me whole.
His love for me is like pure gold.
My God is real for I can feel Him in my soul.

Some folks may doubt; some folks may scorn;
All can desert and leave me alone
But as for me, I'll take God's part,
for God is real and I can feel Him in my heart

* Repeat *

I cannot tell just how you felt
When Jesus took your sins away
But since that day, yes since that hour
God has been real for I can feel His holy power

* Repeat *


(意訳)

私には知りえないことがある
私には行かれない所がある
けれどたった1つだけ確かなことがる
神様は現実のもの、魂の深くに彼を感じることができる

(繰り返し)
私の神様は本物、魂のなかにいる
私の神様は本物、彼が罪を洗い流し、私を完全にしてくれた
その愛は純金のようだ
私の神様は本物、魂の深くに感じることができる

ある人たちは疑うだろう、ある人たちは罵るだろう
皆私を見捨て、独りぼっちにしてくれていい
それでも私は、神様の味方をする
なぜなら神様は現実のもので、心の深くに感じることができるから

イエス様があなたの罪をぬぐい去ってくれた時
あなたがどのように感じたかを説明することはできないけれど
あの日から、あの時から
神様は現実のもので、その神聖な力を感じることができる。



「神様って本当にいるの?」という疑問は、多くの人がもっているものですね。「神様」の存在は信じないけど、「すべてをつかさどる偉大なパワー」が存在することはわかる、なんていう人もたくさんいます。前回も書きましたが、日本やインド、ギリシャをはじめその他様々な国に「なんとか神様」がやけにいっぱいいたりして、「神様」と一言でいっても、何がなんだかよくわからない状態になっています。いろいろな国の土俗信仰で、雨の神様とか、太陽の神様とかを祭ることがありますが、これらは皆、人間が全知全能の神様を求めるよりも、手短に見える木や泉を「神様」のかわりに崇めたりした偶像崇拝です。聖書には、はっきりと誰が神様なのか書かれています。使徒言行録には、パウロがアテネではびこる偶像崇拝に憤慨して説教している様子が書かれています。聖書を持っている方は、新約聖書の使徒言行録第17章の16節から34節までを読んでみましょう。ここでは、重要な箇所だけ抜きだして書きます。



17:16-18 パウロはアテネで2人を待っている間に、この町の至る所に偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何が言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。
Now while Paul waited for them at Athens, his spirit was stirred in him, when he saw the city wholly given to idolatry. Therefore disputed he in the synagogue with the Jews, and with the devout persons, and in the market daily with them that met with him. Then certain philosophers of the Epocureans, and of the Stoicks, encountered him. And some said, What will this babbler say? Other some, He seemeth to be a setter forth of strange gods: because he preached unto them Jesus, and the resurrection.

17:22-25 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいる者、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えて貰う必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えて下さるのは、この神だからです。
Then Paul stood in the midst of Mars'hill, and said, Ye men of Athens, I perceive that in all things ye are too superstitious. For as I passed by, and beheld your devotions, I fond an altar with this inscription, TO THE UNKNOWN GOD. Whom therefore ye ignorantly worship, him declare I unto you. God that made the world and all things therein, seeing that he is Lord of heaven and earth, dwelleth not in temples made with hands; Neither is worshipped with men's hands, as though he needed any thing, seeing he giveth to all life, and breath, and all things;


17:26-29 神は、1人の人からすべての民族を造り出して、地上の至る所に住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っている通りです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。

And hath made of one blood all nations of men for to dwell on all the face of the earth, and hat determined the times before appointed, and the bounds of their habitation; That they should seek the Lord, if haply they might feel after him, and find him, though he be not far from every one of us: for in him we live, and move, and have our being; as certain also of your own poets have said, For we are also his offspring. Forasmuch then as we are the offspring of God, we ought not to think that the Godhead is like unto gold, or silver, or stone, graven by art and man's device.


17:30-32 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるように、と命じておられます。それは、先にお選びになった1人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまたきかせてもらうことにしよう」と言った。
And the times of this ignorance God winked at; but now commandeth all men every where to repent: because he hath appointed a day, in the which he will judge the worked in righteousness by that man whom he hath ordained; whereof he hath given assurance unto all men, in that he hath raised him from the dead. And when they heard of the resurrection of the dead, some mocked: and others said, We will hear thee again of this matter.


ここでいう「先にお選びになった1人の方」というのは、もちろんイエス・キリストのことです。ペテロは、イエス・キリストの十字架の上での殉教と復活、そしてそれに伴って人類の罪が洗い流された福音を、偶像崇拝に夢中だったアテネの人々に説いたわけです。ある人たちは信じて救われ、ある人たちはペテロをばかにし、ある人たちは理解したものの、その福音を受け取ろうとはしませんでした。このような人間の反応は、世界中どこにいっても、今も昔もかわりません。ちなみに旧約聖書にも、偶像と本当の神様の違いがはっきりと書かれています。エレミヤ書の10章1節から16節を読んでみてください。



エレミヤ書10:10 主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。The LORD is the true God, he is the living God, and an everlasting king.

10:14-16 人は皆、愚かで知識に達しえない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞に過ぎず、霊をもっていない。彼らは空しく、また嘲られるもの、裁きの時がくれば滅びてしまう。ヤコブの分である神は、このような方ではない、万物の創造者である
Every man is brutish in his knowledge: every founder is confounded by the graven image: for his molten image is falsehood, and there is no breath in them. They are vanity, and the work of errors: in the time of their visitation they shall perish. The portion of Jacob is not like them: for he is the former of all things.


私たち人間が信じようと信じまいと、聖書に記されていることは神様の御言葉であり、真実です。ヨハネの手紙1にはこう書いてあります。

ヨハネの手紙1

5:1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。
Whosoever believeth that Jesus is the Christ is born of God.

5:3-5 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。誰が世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
For this is the love of God, that we keep his commandments: and his commandments are not grievous. For whatsoever is born of God overcometh the world: and this is the victory that overcometh the world, even our faith. Who is he that overcometh the world, but he that believeth that Jesus is the Son of God?

5:10-12 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
He that believeth on the Son of God hath the witness in himself: he that believeth not God hat made him a liar: because he believeth not the record that God gave of his Son. And this is the record, that God hath given to us eternal life, and this life is in his Son. He that hath the Son hath life; and he that hath not the Son of God hath not life.

5:19-21 わたしたちは知っています。私たちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。私たちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えて下さいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。
And we know that we are of God, and the whole world lieth in wickedness. And we know that the Son of God is come, and hath given us an understanding, that we may know him that is true, and we are in Him that is true, even in his Son Jesus Christ. This is the true God, and eternal life. Little children, keep yourselves from idols.

私も日本で普通に育っていくなかで、何も考えずに神社でお稲荷さんとか、お寺で地蔵とか(?)なんとかの建物で恋愛の神様だなんだと、半信半疑で一応祈ってきましたが、本当の神様って誰なのか説明されたことは一度もありませんでした。けれど、聖書にははっきりとすべてを司る神様のことが書かれていて、誰にお祈りすればいいのかきっちり教えてくれます。また、イエス様を通して天国に行く道を示してくれているのだから、なんて素晴らしい福音だ!と思っちゃいますね。よく必読書のことをナントカのバイブル、なんていう言い方をしますが、聖書は本当に人生のバイブルです!皆さんも是非本当の神様を信じ、イエス様に天国への道へ導いてもらいましょう。


2008年8月7日

アメリカ(半分)横断

バージニアからオクラホマに帰ってまいりました。行きは空路をとったのですが、帰りはダニーのマイカーで陸路でした。途中、Memphisで1泊、そして弟君の通うバイブル・コレッジのあるArkansasのHot Springsで土日の週末をすごし、はるばる合計18時間以上のドライブをしてきました。ダブリンはとっても過ごしやすかったのに、どんどん西に行くに連れて気温が高くなっていく様子がよくわかりました。美しい森林や丘、豊かな芝が消え、かわりに低木と平たい渇いた大地に変化してゆく景色をみながら、ああ、オクラホマにどんどん近づいてる、と思いましたよ。地図にあるように、ルートはアメリカの南部を横断する感じなので、やっぱりクリスチャン・カントリーな地域ばかり。そんなわけで、高速道路でもおもしろいものを見つけましたよ。

一つ目の写真は、巨大な十字架。これ、テネシー付近でいくつも建っていたので、多分どこかの教会アソシエーションみたいのが一緒に仕掛けているのではないかと思いますが、その大きさは、横に小さくうつる建物をみていただければ分かるとおもいますが、軽く11階建てビルくらいあるんじゃないかと思われます。二枚目の写真は、クリスチャンの運転するトラック。" JESUS CHRIST IS LORD not a swear word"と書いてあります。Swear wordとは、まあ無意味なののしり言葉のことですが、よくアメリカ人は「くそったれ!!」のような意味で"Jesus Christ!!"とか "Oh my GOD"とかいいますね。映画とかにもよく出てきます。これって、ようするに神様のことを無意味に冒涜してるわけですよね。旧約聖書の十戒のなかに、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」申命記5:11" Thou shalt not take the name of the LORD thy God in vain: for the LORD will not hold him guiltless that taketh his name in vain" とあります。このトラックを装飾した人は、このことを強調したかったんですね。「イエス・キリストは主=救い主であって、ののしり言葉じゃないぞ!」と言っているわけです。さらに、その下には" For whoever shall call upon the name of JESUS CHRIST shall be saved" Romans 10:13(「主イエス・キリストの名を呼び求める者は誰でも救われるのです」ローマ章10:13) と書いてあるので、このトラックの持ち主は明らかに救われているクリスチャンの方のようです!アメリカ南部の高速を走っていると、けっこうこんな感じのトラックが走っているので、おもしろいです。また他にも見つけたら写真とります。

それにしても、オクラホマは暑いです。相変わらず40度越え当たり前で、必要な用事以外は家から一歩もでない日々が続くでしょう(笑)オクラホマに入った途端、途中休憩のために入ったガソリンスタンドのショップなどで気象警報が頻繁に流れていて、相変わらず「週の半ばには局地的な嵐があるでしょう」とか言っているのですが、なかでも「….というわけで毎日非常に暑くなるので、家族のメンバー、とくに年寄り、犬、子供などは室内にとどまっているように、よく注意してください」というアナウンスには笑いました。「犬」もか!と思って。

ところで、聖書って読むのが難しい、という人が多いですが、実際に読んでみると、ちっともそんなことはありません。とくに新約聖書はいたって平坦な言葉で書かれているので、皆「難しい」という先入観に捕らわれているだけなのだと思います。

また、聖書の御言葉は絶対であり、無のまま消えることはありません。
イザヤ55:10-11 雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出る私の言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。
For as the rain cometh down, and the snow from heaven, and returneth not thither, but watereth the earth, and maketh it bring forth and bud, that it may give seed to the sower, and bread to the eater: So shall my word be that goeth forth out of my mouth: it shall not return unto me void, but it shall accomplish that which I please, and it shall prosper in the thing whereto I sent it.

これは本当です。私自身、クリスチャンのクの字も知らなかった時代に読んだ聖書の言葉に救われた経験があります。しかも、それは聖書を読んだわけではなく、漫画の「あさりちゃん」にどんな内容だったかは忘れましたが、「イエス様は右の頬を打たれたら左もさし出す」ように言っている、というような箇所があったんですね。この短い聖句の箇所がまったく無宗教の子供心にとどまって離れなかったわけで、いまになって神様の言葉の強さを実感します。ちなみにこの聖句は、マタイ5:39にあります。マタイの福音書はとてもわかりやすく、神様の意志が書かれているので、聖書ビギナーにはオススメですよ。

では今日は詩編の96章の一部をご紹介。神様を讚えた素敵な歌です。
PSALM96:1-6
O sing unto the LORD a new song: sing unto the LORD, all the earth. Sing unto the LORD, bless his name; shew forth his salvation from day to day. Declare his glory among the heathen, his wonders among all people. For the LORD is great, and great to be praised: he is to be feared above all gods. For all the gods of the nations are idols: but the LORD made the heavens. Honor and majesty are before him: strength and beauty are in his sanctuary.

新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ。諸国の民にその驚くべき御業を。大いなる主、大いに賛美される主 神々を超えて、最も畏るべき方諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ 御前には栄光と輝きがあり 聖所には力と光輝がある。

どの国にいっても、いろいろな「なんとかの神様」が存在します。聖書で讚える「神様」は、あらゆる「なんとか神様」達の上にたつ方です。天国と地球を造り、すべてを創造された方。「なんとか神様」達は、木彫りの像だったり、鉄や石で人間がつくりだして、本当の神様のかわりにあがめようとした「偶像」にすぎません。本当の神様は、そういう像たちと違って、目に見えたり、手で触れたりすることはできません。けれど、私たちが心のよりどころにすべきなのは、世界中にちらばっている人間がつくりだした「偶像」達ではなく、人間を造り出してくださった、天にいる神様のみです。それでも、神様は聖書を通して、わたしたちが求めれば毎日知恵や進むべき道を与えてくださいます。おみくじを毎日ひいて一喜一憂していないで、是非本当の神様の御言葉を心に染み渡らせながら、生きていきたいですね!