さてさて、今日は天国の様子の続きを聖書から見てみます。街並みの様子がくわしく書かれているので、読んでみてください。
ヨハネの黙示録 21:10-11 この天使が、"霊"に満たされたわたしを大きな高い山に連れていき、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下ってくるのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。
ヨハネの黙示録は、ヨハネがイエス様から送られてきた天使による御言葉を書き留めたものです。この天国の描写は、大昔からクリスチャンたちの心を勇気づけてきたことでしょう。そこは、イエス様による救いを見つけて、この世の闇から救い出していただいた者達だけが辿りつける、希望の都なんですね。
ヨハネの黙示録 21:18-21 都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
この描写は、じつはいろんな昔話とか、おとぎ話とかにも出てくるんですね。どの国でも、それだけ聖書はいろんな話の根底にあるものだったんですね。
21:22-27 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と子羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も必要でない。神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都にくる。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者は誰一人、決して都に入れない。子羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
「新しいエルサレム」と描写される天国には、昼も夜もありません。そこは、常に神様の栄光と輝きに満ちた、明るい美しい場所なんです。そこには神殿も必要ありません。なぜなら、神様ご自身が、そこにいらっしゃるからです!子羊とは、イエス様のことです。子羊が都の明かりである、というのは、私たちが救いの道しるべとして求める光、それがイエス様であることを指しています。子羊の命の書とは、イエス様による救済を信じ、イエス様と聖霊を自分の心に受け入れた人たち、つまり救われた人たちの名が記された書です。もしもまだ、あなたの名がそこに記されているかどうかわからない、という方がいたら、是非今日イエス様を心に受け入れてそれを確かなものにしてください。救いは、教会に結ばれることでも、献金を続けることでもありません。ましてや、変な教団に入団したり、やけにボランティア活動に精を出すことでもありません。あなたと、神様の関係をもう一度正しくする、それだけです。いままで結ばれていて逃れられなかったいろいろな欲望や罪を、イエス様の力が洗い流してくれるのを、体験してください。
22:1-5 天使はまた、神と子羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものはなにひとつない。神と子羊の玉座に都があって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともしびの光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。
22:14-15 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
イエス様は、いつ地上に戻ってきて、この世界を一掃するか分かりません。今日かもしれませんし、100年後かもしれません。けれど、救いはいつでもあなたが受け入れた瞬間におきるものです。イエス様は、いつでもあなたの心の扉をノックしていますよ!


