2008年3月14日

栄光の都市

昨日は唯一、夜教会でのお仕事がない日だったので、旦那様と近所のショッピングモールでのんびりしてきました。旦那様が手帳とペンを買ってくれました。ペンはcrossのとっても可愛いもので、これから大事に使おうと思います♡

さてさて、今日は天国の様子の続きを聖書から見てみます。街並みの様子がくわしく書かれているので、読んでみてください。


ヨハネの黙示録 21:10-11 この天使が、"霊"に満たされたわたしを大きな高い山に連れていき、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下ってくるのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。


ヨハネの黙示録は、ヨハネがイエス様から送られてきた天使による御言葉を書き留めたものです。この天国の描写は、大昔からクリスチャンたちの心を勇気づけてきたことでしょう。そこは、イエス様による救いを見つけて、この世の闇から救い出していただいた者達だけが辿りつける、希望の都なんですね。


ヨハネの黙示録 21:18-21 都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。


この描写は、じつはいろんな昔話とか、おとぎ話とかにも出てくるんですね。どの国でも、それだけ聖書はいろんな話の根底にあるものだったんですね。


21:22-27 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と子羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も必要でない。神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都にくる。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者は誰一人、決して都に入れない。子羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。

「新しいエルサレム」と描写される天国には、昼も夜もありません。そこは、常に神様の栄光と輝きに満ちた、明るい美しい場所なんです。そこには神殿も必要ありません。なぜなら、神様ご自身が、そこにいらっしゃるからです!子羊とは、イエス様のことです。子羊が都の明かりである、というのは、私たちが救いの道しるべとして求める光、それがイエス様であることを指しています。子羊の命の書とは、イエス様による救済を信じ、イエス様と聖霊を自分の心に受け入れた人たち、つまり救われた人たちの名が記された書です。もしもまだ、あなたの名がそこに記されているかどうかわからない、という方がいたら、是非今日イエス様を心に受け入れてそれを確かなものにしてください。救いは、教会に結ばれることでも、献金を続けることでもありません。ましてや、変な教団に入団したり、やけにボランティア活動に精を出すことでもありません。あなたと、神様の関係をもう一度正しくする、それだけです。いままで結ばれていて逃れられなかったいろいろな欲望や罪を、イエス様の力が洗い流してくれるのを、体験してください。

22:1-5 天使はまた、神と子羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものはなにひとつない。神と子羊の玉座に都があって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともしびの光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

22:14-15 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。


イエス様は、いつ地上に戻ってきて、この世界を一掃するか分かりません。今日かもしれませんし、100年後かもしれません。けれど、救いはいつでもあなたが受け入れた瞬間におきるものです。イエス様は、いつでもあなたの心の扉をノックしていますよ!






2008年3月12日

雲の上?

先日チューリップを買いました。綺麗に咲くけど、あまり長持ちしないですね。でも旦那様と、神様が造り出した植物とか動物ってなんて美しいんだろうね、としみじみとしておりました。



さて、前回までに、本当の「救い」のお話をしました。救われたくなった方はいたでしょうか?今日は、救われた人たちがいく、天国ってどんなところ?というのを聖書から見てみましょう。だいたいみなさんのイメージにある天国って、多分イタリア方面のキリスト教宗教画的イメージかもしれませんが、本当はどんな所なんでしょうか?


ヨハネの福音書 14:2−3 「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなけば、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」


上の言葉はイエス様の言葉です。私の父の家、というのが天国のことです。そこには、救われた私たち一人一人のために、家が用意してあります。神様が救うべき人間をすべて救い、場所がすべて整った時、イエス様が救われた者たちを天国を連れて帰るためにいらっしゃいます。それが、キリスト者たちが待ち望む、イエス様の再臨の時ですが、よく映画とかにもなっているように、それが世界の終わりの時と言われています。神様はノアの時代に洪水によって世界を一掃したように、いまの混とんとした世の中を一新されるのです。


ヨハネの黙示録 21:3-4 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」


天国には、私たちがこの世で苦しまなければならなかった悲しみも、苦労もありません。それは、新しいエルサレムと呼ばれていますが、その詳しい様子は次回お届けすることにして、私たち夫婦が大好きな聖歌をお届けします。天国を待ちわびる希望に満ちた歌です。

メロディはこちらからどうぞ。Lorain County Free- Net Chapelからです。

http://misslink.org/chapel/sound/whataday.mid


WHAT A DAY THAT WILL BE

By Jim Hill

There is coming a day when no heart aches shall come,
No more clouds in the sky, no more tears to dim the eye;
All is peace forever more on that happy golden shore,
What a day, glorious day that will be

(Chorus)
What a day that will be when my Jesus I shall see,
And I look upon His face, the One Who saved me by His grace:
When He takes me by the hand, and leads me through the Promised Land,
What a day, glorious day that will be.

There'll be no sorrow there, no more burdens to bear,
No more sickness, no pain, no more parting over there;
And forever I will be with the One Who died for me,
What a day, glorious day that will be.

(Chorus)
What a day that will be when my Jesus I shall see,
And I look upon His face, the One Who saved me by His grace:
When He takes me by the hand, and leads me through the Promised Land,
What a day, glorious day that will be.



2008年3月5日

狭い門 (愛の話 8)

だいぶ春めいてきましたね。私は春が大好きです。空気が甘いし、空は明るいし、鳥はかわいいし、なんかうきうきしますよね。新学期が嫌いだから春は嫌いといっていた友人がいますが、何事も前向き思考でいきましょう。


さて、今回はイエス様の十字架の上でのお仕事について。

ヨハネの福音書 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」

神様は信じるけど、キリスト教って、なんでイエス様を信じないといけないの?という質問をよく聞きます。その答えは簡単です。いままで話をしてきたように、人間は神様と離れてしまいました。そして、その罪深い性質からそのままでは神様のもとに帰ることができなくなってしまいました。そこで神様は、人間と神様の橋渡しとしてイエス様を地上に送られました。イエス様は神様ご自身です。その罪のない存在であるイエス様が人間の罪を背負って、不実の罪で十字架にかかって血を流して死にます。これは神様への罪の償いの生け贄としての象徴です。前にも述べたように、昔人間は罪を犯すたびに汚れのない羊など動物の血をもって生け贄として、神様への償いとしていたのですが、イエス様はそれらの伝統を打ち切り、またイエス様の神としての存在を信じる者のみが、本当の神様のもとへ帰ることができる道を整えられたのです。「わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」というのが、イエス様の償いを信じる者の魂のみが、神様のもとに帰ることができる、という意味です。

ヨハネの福音書 11:25-26 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」


イエス様は、神様ですので、一度十字架にかかって死にますが、3日後にお墓からでてきて12使徒たちのまえに姿をあらわします。12使徒たちは普通の人間ですので、前々からイエス様が自分の行うことを伝えていたのですが、信じたり信じられなかったりしていました。さて、上の聖句はあなた方個人個人に向けられたイエス様からの言葉です。「わたしは復活であり、命である。」というのは、イエス様ご自身が、神様なので命そのものであることと、復活であるというのは、人間の魂を死から救う=復活させる存在であるということを象徴します。「わたしを信じるものは、死んでも生きる。」というのは、イエス様の復活を信じるものは、肉体が死んだのちも、その魂は永遠に{神様のもとに帰る=生きている}ことができる、という意味です。「生きていてわたしを信じる者は、誰も、決して死ぬことはない。」というのは、今、現在この世に生きていて、イエス様の救いを信じているものは、肉体に死がおとずれてもその魂は恐ろしい地獄をさまようことなく、神様のもとに帰り、天国で楽しむことができる、という意味です。さて、あなたは、このことを信じますか?

ヨハネの黙示録 21:6−7 「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者には、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。」


イエス様はまた、イエス様を信じ、救われた者に対してその安全と恵みを約束してくださっています。「初めであり、終わりである」というのは、神様が世界をお作りになった初めであり、そしてそれを終わらせることもできる存在であることをいっています。渇いている者、とは私たち一人一人のこと、神様の恵みを日々必要としている人間達です。神様を信じ、従うならば「命の水の泉から価なしに飲ませよう」といって、常なる恵みを約束してくださっています。「勝利を得る者」というのは、救われたのち、罪や誘惑に神様の力によって打ち勝ち、その鎖にもう縛られていない者のことです。つまり、自分の罪を認め、救いを求めたものには罪や誘惑に打ち勝つ力を神様はお与えくださるのです。

マタイの福音書 11:28-30 疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

罪にがんじがらめになっているとき、それは本当に重荷です。イエス様はいっています。「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。 今日、あなたは悩んでいたり、心に重荷がありませんか?すべて神様に預けてしまいましょう。本当の安らぎというのは、なんとかセラピーなどで得られるものではありません。唯一、イエス様の救いに寄り頼むことに寄ってのみ、可能なことなのです。

今日、心に重荷のある人、神様に寄り頼んで、救われることをお勧めします。心のなかで、唱えてみましょう。「イエス様、私は自分がいままで愚かな罪をたくさん犯してきたことを知っています。今、この心に重たくて仕方がありません。あなたが、私たちのかわりに罪を洗い流してくださったことを信じます。どうか、わたしの心に入ってきて私を救って下さい。そしてこれからあなたにしたがって歩むべき道をお教えください。イエス様の名によってお祈りします。アーメン」


さて、おまけです。わたしの大好きな曲を紹介します。メロディが聞きたかったら、こちらへアクセスしてみてください。

http://ingeb.org/spiritua/atthecro.mid


コリント信徒への手紙1 1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です

At The Cross
Lyrics Isaac Watts & Ralph E. Hudson


Alas! and did my Savior bleed? And did my Sovereign die?
Would He devote that sacred head For sinners such a one as I?

*At the cross, at the cross where I first saw the light,
And the burden of my heart rolled away
It was there by faith I received my sight, And now I am happy all the day!

Was it for crimes that I have done He groaned upon the tree?
Amazing pity! grace unknown! And love beyond degree!

(* repeat)

Well might the sun in darkness hide And shut His glories in,
When Christ, the mighty Maker, died For man the creature's sin.

(* repeat)

But drops of grief can never repay The debt of love I owe;
Here, Lord, I give myself away-'Tis all that I can do!

(* repeat)

墨よりも黒き 心なれど
雪よりも白く 洗われたり
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

疑い恐れは 消えてあらず
闇夜は変わりて 昼となれり
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

日々己をすて 十字架を取り
ただ主に従い 道を歩まん
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

今 主を見ずとも 信ずるわれの
楽しみ 栄えは 限りあらじ
君のもとに行きし時に 重荷はすべて去れり
今はただイエスを信じ 喜び限りなし

「墨よりも黒き心なれど」新聖歌 258番
歌詞 笹尾鉄三郎 1868-1914

Music "At the Cross" Ralph E. Hudson 1843-1901