2008年2月28日

SOS (愛の話 7)

アメリカの南部にいくと、そこは本当にクリスチャンカントリーです。とくにバージニアとかからテキサス方面へ延びるバイブル・ベルトと呼ばれる地域では、車で高速道路を走っていると、ものすごく巨大な十字架がいくつもたっていたり、マクドナルドの宣伝のとなりに大きく"JESUS LOVES YOU"なんて広告(?)がでていたりします。上の画像はgoogle map から。アイダホにあるみたいです。

私の旦那様も、数少ない日本語ボキャブラリーを用いて「イエスサマハ、アナタヲ、アイシテイマス。」といいながら日本人に笑顔で対応していますが、新約聖書の1番大切なメッセージって、"JESUS LOVES YOU"なんです。今日はこの神様の偉大な愛について。


ヨハネの福音書  3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネの手紙1 4:8−10 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。



前回も挙げたこの二つの聖句を見てみましょう。「独り子」「御子」というのが、イエス・キリストのことです。聖書には、イエス・キリスト、神そして聖霊は3つであり一体であるもの、とされています。イエス様は地球に人間として生まれてくるまえも、ずっと天国に存在なさっているので、旧約聖書とかを読んでいると、たまに神の御遣いとして登場します。モーセの時代、イスラエルの人々は罪を犯すたびに、生け贄の羊や牛を神様にささげ、その血をもって罪は清められるものとされていました。そうして、人々は予言にある「救世主」の登場を待ち望んでいます。新約聖書にはいると、神様はイヴに約束したように、彼らの子孫から救世主を登場させます。その母として選ばれたのがマリアで、地球上での肉体をもつ母親として、夫のヨセフとイエス様を育てます。(たまに、マリアはずっと処女だったと信じている方がいますが、聖書によると、マリアはイエスを産んだ後、ヨセフと普通に夫婦として子供をつくったのでイエス様には半分兄弟姉妹が何人かいたんですよ。新約聖書の一つ、ヤコブ章を書いた人も、そのうちの1人といわれています。)

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」これは、どういうことでしょうか。わたしたちが生きるようになる、というのは、永遠の命を得るということです。永遠の命って、なんでしょうか。これは、肉体が死んだ後、私たちの魂、霊が神様と共にいることができる、ということです。エデンの園の話をしたときに書いたように、アダムとイヴはエデンの園で神様と共に生きていました。つまり、永遠の命をもっていたのです。しかし、神様と隔絶してしまって以来、私たちの魂は神様から離れてしまい、暗闇をさまようことになってしまったのです。そうして、人間は自分たちで神様を創り出すようになりました。木や石を彫ってそれを神様として拝んだり、黄金の牛をつくってそれを神様として拝んだり。見えなくなってしまった神に、自分たちの罪を認めて許しをこうよりも、神がいないのならば創ればいい、というアイデアに傾倒してしまいました。さて、十戒を思い出してみてください。神様は、第一に「神は私1人である」「偶像を礼拝してはいけない」といっていますが、人間はそれを無視しました。これは、霊が死んでいるため、精神的に盲目になっている状態です。神の正しさを求めるのではなく、自分たちの正しさを押し通そうという姿勢が、そこにみられます。

こんなわけで、人間たちはまったく「救いようのない状態」にはまり、それはさらに泥沼化していきます。誰も、本当の神様を求めなくなってしまったからです。けれど、神様は、自分の作り出した人間たちに情を示します。そして、このままでは皆死んでから地獄に行ってしまうという泥沼状態から人間たちを脱出させるため、イエス様を天国から地上へと送りました。それが、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ということです。

私たち人間は、自分たち自身の努力でその身を地獄から天国へと救うことはできません。「コヘレトの言葉」を読むと、美しい詩としてよく書かれていますが、人間とは本当に何もできないむなしい存在です。また、「ヤコブの手紙」にはこう書かれています。


ヤコブの手紙 4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。


本当の「救い」というのが、慈善事業をどの位したか、とか、どのくらい多額の金を宗教団体に寄付したかとかそういうもので計られてしまったら、カンボジアにいる飢えている子供たちには救われるチャンス、というのはまったくないことになってしまいます。「救い」とは、あくまでも人間すべてに差し伸べられている手、神様からの贈り物なんです。けれど、それを受け取るか、受け取らないかは私たち個人個人の自由です。神様は人間に自由意思を与えられたからです。

よくキリスト教まがいのカルト団体では、寄付金を強要したり、勧誘のノルマがあったり、強制合宿があったりして、これだけの事をやらないと、お前は地獄に落ちる、とか呪われる、とかいう感じで脅されるようです。もしも皆さんもそういう目にあいそうになったら素早く逃げてください。カルト団体は、「恐怖心」を利用してマインドコントロールしますから。けれど、イエス様の愛は、こういう「恐怖」を一掃するものです。これは、くじけそうな時に私をいつも勇気づけてくれた私の大好きな聖句です。

"For God hath not given us the spirit of fear; but of power, and of love,and of a sound mind"(2Timothy 1:7) 

テモテへの手紙2 1:7 神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちに与えて下さったのです。
 

私たちはしょっちゅうSOSを出しています。でも、皆さんはそれを神様にむけてだしていますか?真の助けというのは、神様のみからくるものです。「自分が信じている」と信じている神様が、誰なのかわかっているでしょうか。世の中にはたくさんの嘘の神様があります。でも、それを見極めるのは難しいことではないんです。神様に真実を見せてくれるように頼まないといけなんですが。

ではでは、次回はイエス様が十字架の上でした仕事について!


2008年2月26日

十字架=愛 (愛の話 6)

さてさて、前回までに私たちはこのままでは皆地獄へ行っちゃうの??という話をしました。今回は「救い」の本題です。



いままで、外国暮らしをしたことがある人や、近所に教会があったから日曜学校に行ってみた、とか、小中学がキリスト教系だったから、といってなんとなくキリスト教に関する知識がある人は多いと思います。そして、たいていの「何となく仏教徒?」日本人として育った皆さんは(私を含め)、まず「イエス・キリストを信じなさい。」とクリスチャンに言われると、「はあ、そうですか。でもなんでかわからないから、まあいいです。」という返答になっちゃうんですね。私の場合、ロンドンでろくに説明もなく「イエス様を信じろ、信じろ、なんで信じられないんだ」と散々脅された結果、「自分は信じている」と信じてみようと努力してみましたが、まあもちろん無駄ですよねー。自分では「わかってない=信じられてない」ことを知ってるんだもの。というか、なんでイエス様を信じることがそんなに重要であるのか、っていう説明が、大抵されない。それが1番いけないんだと思いますが。

そういうわけで、クリスチャンと称する仲間に入ってから(これがまたいろいろな自称クリスチャンがいるので、またそのうちご紹介しますが、、)聖書を読んだり、お祈りをしたり、お祈りをする真似をしてみたり、そうこうするうちにいろいろ痛い目にあって、本気で神様を求めるようになり、なぜイエス様がそんなに重要なのかが、やっとわかったわけです。



そういうわけで、今回からはイエス様の救いの奇跡をご紹介します。

新約聖書

ヨハネの手紙1 4:7−10 愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

ヨハネの福音書  3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネの黙示録 21:6−8 「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者には、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべて嘘を言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」


前回、キーワードとして「命の書」「永遠の命」「イエス・キリスト」と並べてみましたが、これを非常に手短に言うと、こういうことです。

「イエス・キリスト」は人の形をとって、神様が地球にやってきた人物です。彼は、神の子として、聖霊によって処女であるマリヤに宿り、罪のまったくない存在として生きました。当然神自身でもあるので、幼い頃から聖書に精通し、大人になると方々を旅して神に立ち返るように人間達に教えて歩くようになります。そうして旅をするなかで、病を治したり、死人を生き返らせたり、何もないところから食物が溢れたりとさまざまな奇跡を起こします。そうすると、宗教人たちがイエスを非難するようになります。そうして、イエスを神を冒涜した罪で十字架にかけて殺せ、とさかんにローマ皇帝にせまります。ローマ皇帝はイエスに罪をまったく見いだせないものの、群衆の圧力によってイエスを十字架にかけるように命令します。こうしてイエスは十字架にかけられて死にますが、本人が使徒達にも予言した通り、3日後に生き返って使徒達の前に姿を現し、そして天国へと上っていきました。この、十字架にイエス様がかかった行為自体に、ものすごい意味があるんです!それは順に説明していきますが、ともかく、このイエス様が十字架にかかったことで、全人類の罪が洗い流されました。かつては羊や動物の血を償いの生け贄として、神に納めなければならなかった人間たちですが、この罪一つないイエスという神の独り子が生け贄になることによって、その血を通して全人類の血は清められました。しかし、これはイエス様を信頼し、彼のなしとげた偉業を信じる者にのみ、与えられる「救い」です。こうして、イエス様を信じる者には、「永遠の命」があたえられ、その名を「命の書」に書き込まれることになるのです。そうして、人間は地獄へと落ちる定めから逃れることができる=「救われる」ことができるのです。


ざっと駆け足であらすじをいいましたが、次回から納得のいくように、少しずつ説明していきますね☆

ちなみに上記の画像はインターネットから見つけました。南カリフォルニアに、Leonard Knightという人がつくったそうです。www.eugenecarsey.comからの画像です。



罪と罰 (愛の話 5)

あなたは嘘をついたことがありますか?小中学生の頃に遊びのつもりで万引きとかしたことありますか?妻/夫に内緒でほかの異性と心を通わせたりしていませんか。父母を大切にしていますか?ポルノや薬、お酒に夢中になってそれが中心の人生になっていませんか?

世の中に、嘘を一度もついたことがない人間は、まったくいないでしょう。その嘘がどんなに大きいものであれ、小さいものであれ、罪の性質を持って生まれるようになってしまった私たちには、神様との約束を完全に守れるということはないのです。

ローマ信徒への手紙 3:10 正しい者はいない、1人もいない。

ヤコブ 2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。

罪には、とうぜん罰があります。

ローマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

さて、この聖句がメインテーマ、「救い」の鍵になるところです。
「罪から来る報酬は死です」とありますが、これはどういうことでしょうか。一つめに言えることは、前にも述べたように、人間が罪の性質を担ってから、生命に寿命ができてしまったことですが、ここでは実はもっと重要な「死」について言っているのです。人間は、死んでから、その肉体は朽ちてなくなりますが、霊(魂)は消えうせてしまうわけではありません。肉体の生命を離れた後、それぞれ裁きをうけることになります。小さい頃によんだ昔話なんかにも、こういう話題はよく出てきていましたが、日本では大概、この裁きの鍵は良いことをたくさんしていれば天国へ、悪いことの方が多かったら地獄に落ちる、といった感じのあいまいな認識だと思います。でも、この良いこと、悪いことは天秤にかけられて計られるわけではありません。また、前にも述べたように、神様にとっては、人間のつくたった一つの小さな小さな嘘でも、「有罪」なんです。「有罪」である、ということは。。。。

ヨハネの黙示録 20:15 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

火の池に投げ込まれるらしいです。これってつまり、地獄のことですよね。これが、「第二の死」つまり、肉体が死んでから、魂が永遠にとどまる場所です。っていうことは、人間はそのままだと誰でも地獄行きってこと??ということになります。でも、地獄ってそもそも人間のためにつくられたわけじゃなかったんです。本来は、もともと神様に仕える第一天使であったルシファーが、自分の方が神様よりも偉くなってやる、という背きをした結果、ルシファー側についた天使達とともに堕天使となって天国から地の底へと突き落とされた場所、それが地獄です。それで彼がサタン、悪魔となったわけです。そして、この悪魔が最初にイヴを誘惑し、人間を罪に落とした存在です。よく、犯罪者がインタビューとかで、「悪魔にそそのかされた」とか「魔がさした」とか言ってることありますが、これって、聖書から来ている言い回しなんですよ。なんとなく、因果関係が掴めましたか?要するに、悪魔は神様がお創りになった愛する創造物である人間も、巻き添えにして地獄に落ちるようにと計ったわけです。

そこで神様は、人間がこのままだと皆地獄へいってしまうので、救いの手を伸ばしました。それが「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」なんです。

さて、いろいろキーワードがでてきましたね。「命の書」とか「永遠の命」とか「イエス・キリスト」とか、良く聞くけど一体なんでそれが救いなの??というところを次回お話します。


2008年2月22日

良い人悪い人 (愛の話 4)

今日は春を感じさせる陽気でしたね。近所を散歩していると、甘い花の香りがどこかからが漂ってきて、とても気持ちのよい昼下がりでした。上の写真は旦那様の実家のお庭。去年の秋に撮りました。横にあるのは詩編の第1章。とってもいい詩なので味わってみてください。



さてさて、今日は「神の栄光を受けられなくなっている」とはどういうことなのか?についてです。



旧約聖書 イザヤ書

第59章1−2節 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。


3−4節 お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ 唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。正しい訴えをする者はなく 真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り 労苦をはらみ、災いを産む。


9−10節 それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ 恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ 輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。盲人のように壁を手探りし 目を持たない人のように手さぐりする。真昼にも夕暮れ時のようにつまずき 死人のように暗闇に包まれる。


12節 御前に、わたしたちの背きの罪は重く わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪は私たちと共にあり わたしたちは自分の咎を知っている。



聖書を読んでいて、すごいなあと思うことは、なんでもそのものズバリ、白黒ものすごくはっきり書かれているところです。上に挙げた聖句が、まさになぜ私たちは神の栄光が受けられないか、の説明です。神様は、とても神聖な存在です。人間は、その神に背いた瞬間から、罪の奴隷になってしまいました。この、わたしたちの抱える罪が、神様と人間を遠ざけ、神様の恩恵を受けられないものにしているのです。



昨日まで、罪は人間に生まれた時から備わってしまうものになった、という話をしました。ただこれだけだとピンとこない方がいらっしゃるかもしれませんので、私たちが毎日のように犯している罪とはどんなものか考えてみましょう。ではまず、神様が人間に与えた律法、十戒をみてみましょう。ここから、世の中の犯罪の規定が生まれたのです。



旧約聖書 出エジプト記

第20章 3節 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(1.主が唯一の神である)

4−5節あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。 (2.偶像崇拝の禁止)

7節 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。(3)

8節ー10節 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。(4)

12節 あなたの父母を敬え。(5)

13節 殺してはならない。(6)

14節 姦淫してはならない。(7)

15節 盗んではならない。(8)

16節 隣人に関して偽証してはならない。(9)

17節 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。(10)



(5)〜(10)なんかは、世界中どこに行っても当たり前のことであっていいはずですよね。日本人はわりと道徳的な人間性をもっているので、このくらい守って人間として当たり前だ!と思う方がいらっしゃるかもしれませんが、旧約聖書の時代から人間って本当になんてひどいことができるんだ、ということがいっぱいです。次回はもっと詳しく私たちの日々犯す罪について検証してみましょう!




2008年2月21日

良いこと悪いこと (愛の話 3)

今朝はうちのマンションの火災報知器検査があって、定期的に赤いベルがジリンジリン鳴っています。中学の始業ベルがこれと同じだったけれど、家の中で鳴られるとつらいですね〜。



さてさて、昨日はエデンの園の話をしましたが、今日はなんで「人類は皆罪人である」って言われるの?ということを見てみましょう。



新約聖書 ローマの信徒への手紙 

5章12節 このようなわけで、1人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。



3章10−18節 「正しい者はいない。1人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの1人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」



3章23節 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています



考える鍵になる三つの聖句を挙げてみました。まず「1人の人によって罪が世に入り」というのが、先日お話したアダムの神様に対する不従順を指します。わかっていながら、神様の命令を守らなかった、その背きの行為が罪と呼ばれるものです。そして、「罪によって死が入り込んだ」というのが、肉体的寿命と、精神的な死=神様との別離を指します。こうして、アダムとイヴから続く、全人類がその罪の後継者になってしまったわけです。



そのため、人は生まれながらにして、神様に背く罪の性質をもっています。よく、赤ん坊は罪がないとかいいますが、そんなことはありません。たとえば、どこかの託児室に行ってみてください。まだ言葉も話せない赤ん坊たちがおもちゃをとり合っては喧嘩をし、母親の言うことをわかっていながら聞こうとしないのを目の当たりにすることでしょう。このような内在する罪へ走る性質は、誰から教えられるものでもなく、アダムが神様に背き、死を招いた瞬間から、人間に備わってしまったのです。それを良く表しているのが、二番目に挙げた聖句です。そういうわけで、「人は皆、罪を犯して」というステイトメントが成り立つわけです。



旧約聖書のモーセの時代に、神様は人間に何が罪として定められるか、という律法を決めた十戒を与えます。これは神様と人間との間の守るべき掟です。映画とかで見たことある方もいると思いますが、その掟は、今でも当たり前の「良識」として存在するものです。けれど、現代の世の中ではその「良識」も無くなってきてしまっているのが怖いところですが、、、。



では、明日は十戒の紹介と共に「神の栄光を受けられなくなっている」ってどういうこと?ということを考えてみましょう。





2008年2月20日

エデンの園 (愛の話 2)

昨日は神様の愛をあなたは受け取りますか?という話を少ししましたが、今日は、良く聞くフレーズの「私たち皆は罪人である」っていうのはどこから来たの?ということを話しましょう。



旧約聖書の一番初め、創世記で、神様はまず男のアダムをつくり、そしてその助け役として、アダムの肋骨からイヴをつくります。そのあと、イヴが悪魔にだまされて、唯一食べてはいけないと言われていた木の実を食べた結果、エデンの園から追い出される、という話はなんとなく聞いたことがあると思います。実はここに、私たち人間が生まれながらにして罪深い存在になってしまった原点があるのです。



創世記 2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」



アダムとイヴは、神様からエデンの園の管理をまかされていました。そこにいる動物たち、そこにある植物、すべてです。そして、神様はたった一つだけ2人に命令をします。「善悪の知識の実だけは、食べてはならない。」2人はその木の実さえ食べなければ、よかったのです。では、なぜそのたった一つの禁止令を破ることになったのでしょうか。



創世記 3:1−6蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」女は蛇に答えた。「私たちは園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んでしまうから、と神様はおっしゃいました」 そこで、蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目をひきつけ、賢くなるように唆していた。女は実をとって食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。



この短いストーリーの中に、人間が罪を犯す原理が隠されています。まず、神様の言葉は常に白黒はっきりしています。先にあったように、神様はいっています。善悪の知識の木の実について、それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」。さて、蛇はイヴになんといって語りかけたでしょうか。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか(?)」まず、蛇はイヴに神様の言葉を疑うように語りかけます。本当に神はそんなことをいったのか?という感じです。そこでイヴは「食べてはいけない、触れてもいけない、死んでしまうから」と神様は言った、といっていますが、ここで既にイヴは神様の言葉に余計なことを付け加えてしまっているのです。神様は、食べたら必ず死ぬ、といっていますが、触ってはいけない、とは言っていません。ここに蛇は誘惑をもってつけ込みます。「決して死ぬことはない。」これは完全に神様の言葉を否定しているのです。イヴはまんまと木の実のもつ誘惑に負けて、その実を食べてしまいます。そうしてアダムにも渡します。アダムは、もちろんこの行為が神様への不従順である、ということがわかっていました。イヴのように騙されて食べたのではなく、わかっていながら罪を犯したのです。



さらにこの後、2人は自分たちが裸であることに気がつき、神様との約束に従わなかった後ろめたさから、神様から隠れようとするのですが、みなさんも、この話にあるような心の動きを体験したことが何度もあるはずです。たとえば子供が、お母さんに「このチョコレートは食べちゃいけません」といわれていたのに、テーブルの上にあったから、いけないとわかっていながらも食べてしまう。食べた後に口の脇にチョコがついているのがバレバレにもかかわらず、お母さんに「僕たべてないよ」と嘘をつく。それとまったく一緒です。他にも、浮気はしてはいけないとわかっていながら、妻/夫に内緒で他の相手に電話をかけていて、着信履歴でばればれだったり、、皆さんも心あたりがあるのではないでしょうか。お酒を飲みすぎると体に悪いからいけないとわかっていながら飲みつづけるのも同じです。そうしてお医者さんに本当に飲んだ量をきちんと告げなかったり、、、でも、神様には全部見られているんですよ!



さて、木の実を食べたことが神様に知られたアダムとイヴは、エデンの園を追放されることになります。あれ?食べたら死ぬんじゃなかったの?とお思いでしょう。これは、「肉体的な死」と共に「精神的な死」を指すのですが、まず、エデンの園にいる限り、2人は不死の存在だったのです。ところが、禁を破り追い出された2人には、肉体的な死(寿命)がある時点で訪れることになってしまいました。また、神様と自由に話をすることができていた「精神的な命」とも切り離されてしまいます。そのため、人間は神様への不従順が原因で、神様から離れた存在になってしまったのです。これが精神的な死です。



では、明日はこの続きから。なんで、アダムとイヴの罪が、今の私たちの罪に繋がるの??ということをお話します。








2008年2月19日

愛の話 その1

昨日はアメリカの休日でした。日曜日は一日中教会のお仕事で忙しいので、月曜日が休みだととってもありがたい!写真は私の愛木、ガジュマル君です。直射日光のあまり入らないマンションなので、育つか不安でしたが、毎日気持ちよさそうにもくもく育っているので嬉しい限りです。



さて、日曜日は伝道師のビルさんがプリーチ(お説教)してくれました。神様の愛について、歴史的に、どうして人間が罪深い存在になったのか、なんでイエス様の存在が大事なのかなど、順を追って説明してくれました。とってもわかりやすいので、そのお話をさらにかみ砕いて、少しずつご紹介していきたいと思います。



4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

新約聖書 第一ヨハネ 第4章7−10節




「誰も私のことをちゃんと気づかってくれない」「誰も僕を愛してくれていない」「生きていて、信じられるものは何もない」「いろんなことがむなしい」「心のどこかに穴があいている気がする」「自分のハートは氷みたいに冷たい」あなたもこんなふうに呟いて、空を見上げてため息ついたりしていませんか?



結局、世の中って、むなしいものでいっぱいです。下品なTV番組、芸能人スクープだけのニュース、カルト団体、インターネットポルノ、公然と行われる売春、アルコール、麻薬、不倫、などなど挙げ始めるとキリがないですが、こういうもので、そういう心のすき間をうめようとしている人がほとんど、というのが現実ですよね。とくにお酒とか不倫とか麻薬とかで、人生の破滅状態に陥った人たちを何人も見てきたので、本当に痛々しいです。あと、侮れないのが、仕事とお金。これのために、家族を顧みなかったり、大切にするべきものを忘れてしまっている人がたくさんいます。



心の足りていないパズルを埋めるのは、「愛」です私の知り合いで、世の中に愛を探しもとめ続けて、不倫、お酒、薬、芸能人などにどっぷりとつかって自殺してしまった人が何人かいますが、そうやって世の中に愛を求めても、存在しないんですよ。なぜなら、愛っていうのは、神様が与えてくださるものだからです。しかも、神様って、あなたを愛してくれてるんです。「神様が私のこと愛してくれてるっていうなら、なんで私の人生はこんなに絶望ばかりなの!!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。でも、あなたは一度でも心から神様の愛を必要としたことがありますか?愛は、神様からのプレゼントです。けれどそれは、私たちが手をのばして受け取らない限り、私たちの心に入ってきてはくれません。「神様なんていない」と初めから思っていたら、その贈り物が受け取れるわけがありませんよね。

実は、私たちの心がこんな風に考えるようになってしまったのは、地球と人間のずーっと初め、アダムとイヴのお話に起源があるんです。



明日はなんで人間は罪に定められた存在、神様に不従順な本質を持ってしまったのかをお話します!







2008年2月16日

あなたに必要なたった一つのこと。

今日は漫画でお届けします。上の画像を順番にクリックしてください。つたない絵ですみません。
こういうのトラクトっていうんですが、アメリカの出版社でいろんな漫画をだしてるところがあって、けっこう面白いので、お暇なときに是非よんでみてください。したにリンクをのせておきます☆

チック・トラクトのホームページより↓

「共通点?」 http://www.chick.com/reading/tracts/5190/5190_01.asp
「タイタニック」 http://www.chick.com/reading/tracts/1706/1706_01.asp
「真実か作り話か」 http://www.chick.com/reading/tracts/0884/0884_01.asp


2008年2月15日

あなたの神様はどんな神様?

おはようございます。昨日のバレンタインは楽しく過ごされましたか?私は旦那様からお花とチョコレートをもらいました。お礼に好物のチーズケーキを焼いてあげたんですが、こてこて好きのアメリカンの舌には日本風チーズケーキはさっぱりしすぎだったみたいです!



それはともかく、今朝聖書を読んでいてこの聖句が目にとまりました。

"Blessed be the Lord, who daily loadeth us with benefits, even the God of our salvation. Se'lah. He that is our God is the God of salvation;and unto God the Lord belong the issues from death."(Psalm 68:18-19 KJV)


『主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神 主、死から解き放つ神』詩編68章20-21節




みなさんの信じてる神様って、どんな神様ですか?昔ロンドンで、ヒンズー教の友人に、素朴な疑問として聞いてみたのですが、答えは「そりゃあ、それぞれ個人個人に、生まれた月によって違う神様がいて、えーっと、、、神様っていっても何千も何万もいるし、、、、僕の誕生日の神様は、毎日僕を守ってくれるんだけど、他の神様もいて、うーん、でも僕は、それら全部はすべて一つの神様で、いろんな顔があるだけなんだと思う。」という非常に要点を得ない解答をもらったことを覚えています。それでも彼の故郷はかなり真剣なヒンズー教徒の皆さんなので、なんとかの祭りとかになると、体中に鎖を繋げて重たい神輿のようなものを担いで山をのぼったり、体中に何か突き刺したりして、(非常に痛そうで僕はとてもできないとか言ってましたが、)私はそれを聞いて、そうやって自分の体を痛めつけることでその神様は喜んでくれるんだろうか、、、という非常にいぶかしい思いにかられた事を覚えています。でも、よく昔見た「世界不思議発見!」とかでも、どこかの原住民が神様と交信するために、体中に鉄を突き刺して歩くとか、トランス状態になって飛び回ってるのとかみたのを覚えてます。そういうの、シャーマニズムっていうんだっけ?という位の知識しかありませんが、小さい頃からこりゃあいったいなんなんだ??という疑問を抱え続けております。



ロンドンにいた頃に、しばらくいっていたある教会では、人が飛び上がったり叫びまわったり、わけのわからない言語でなにか叫びまくったあとで突然卒倒するという光景を目にしたことがありますが、私はそれが目の前でおこるのを目の当たりにしながら、ああ、これは小学校のときにみた「世界不思議発見」に似ている、と冷静に判断していた自分がいたのを覚えています。これは、どうやらカリスマ系教会だったようなのですが、まあ、その話はまた別の機会に。



話を本題に戻して、あなたは、自分の信じている神様がどんな神様が知っていますか?私は、日本でぼーっとおみくじとかひいたり、恋占い♡とかやってる時代はそんなこと考えたこともありませんでした。けれど、ジブリ大好きの夢見がちな少女だった私としては、神様っていうのはいつも暖かく守ってくれているすごい大きい存在♡というような甘えた認識を持っていたことと思います。ロンドンで最初にクリスチャンになった頃は、半ば脅されてクリスチャンになったような状態にいたために、すべて半信半疑。自分で一生懸命聖書を読むという努力もしなかったため、人から言われる間違った情報を鵜呑みにして、一喜一憂する毎日でした。

さて、冒頭の聖句にでてきている神様のキャラクターは、「救いの神」です。よく、アメリカ人たち同士は、[Are you Saved?]なんていう言い方をして、その人が何の宗教であれ話が通じてますが、これを日本語でいうと「あなた、救われてる?」ということになります。「いや、救われてる?って聞かれても、なんの事でしょうか。」というのが一般的な日本人の解答だとおもいます。私もこの「Saved =救われてる」のアイデアが飲み込めずに苦労しました。そんなわけで、明日はこの「救われてる」ってなんなのか話を始めてみたいと思います!


2008年2月14日

愛の日

今日はバレンタインデーですね。バレンタインデーはとくにクリスチャンの行事ではありませんが、私の通う
福生の横田バプテスト教会では、愛の日ということで、今晩福生駅にて7時頃より賛美歌を歌います。チョコレートも配布いたしますので、近くにお住まいの方、通りかかる方は是非足をとめて聞いていってください。元気がもらえますよ。

また、2月17日日曜日、午前11時より、イエス様の愛について、お話があります。あなたが今仏教徒でも、ヒンズー教徒でも、無宗教でもかまいません。皆さん大歓迎ですので、是非一度聞きにきてください。天国へいく道は、この世で良いことをたくさんするのでも、宗教団体にやたらと献金やおふせをするのでも、妙な壺を買うことでもありません。たった一つ、イエス様の愛を心から受け入れ、イエス様の愛に答えて生きていく事で成されるのです。詳しい話を聞きに、いらしてください。

もし遠くて来られない!という方は、http://yokotabaptistchurch.org/ へアクセスしてください。オンラインでもご覧いただけます!
では、今日一日良い日をお過ごしくださいね。


2008年2月13日

神様は全世界共通!

私がクリスチャンになったのは、英国に7年間ほど住んでいたときに、いろいろな出会いがあって、様々な教会に足を運び、試練やら悩みやらをさんざん痛いほど体験した結果、ようやく「救い=Salvation」の意味がわかったからです。キリスト教が一般的に馴染みのない日本にもどってくると、日本には本当のイエス・キリストの福音が伝わってこなかったのね、と実感します。やっぱり鎖国とかしてたからでしょうか。。。
最近、いろいろな方にイエス様のお話をしていて、よく言われるのが、「あ、私は日本人ですから、関係ないです。」とか、「え、それって外国の人のための神様でしょ?うちは日本の神様信じてますから。」とのコメント。それって、すごい間違いで、神様は、全世界共通ですっ!!日本人は、全知全能の神様がいると信じていて、とても信心深く、モラルの高い国民だなあと思います。けれど、イエス様=外国の神様と勘違いなさっている方がとても多いんですね。
イエス・キリストとは、全人類の救済のために、神様の子供として(=神様ご自身なんですが)地上に、人間として生まれました。そして、自分の命を引き換えに、全人類の罪を洗い流してくださいました。{神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである}ヨハネの福音書3章16節
そのため、イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪を背負ってくれたということを信じること、それが天国へいくための唯一の道なのです。このへんの詳しい話を、少しずつこのページではご紹介していきたいと思います。
「いきなり、知りもしない救世主を信じろと言われてもしんじられないわ!」というご意見はもっともなこと。「キリスト教」と一言でいっても、いろいろな宗派があったり、様々な異なる信仰があります。私は、普通の一般的何となく仏教徒な日本人として育ち、いろいろなクリスチャンに出会い、困惑と落胆をこえて、今の信仰に行き当たりました。私自身の体験もお話していきたいと思いますが、とりあえずこのページはバプテストの信仰に基づいたお話をしますので、いままで皆さんが知っていたキリスト教のお話と違うことがたくさん出てくると思います。できるだけわかりやすく説明していきたいと思いますので、これからよろしくお願いいたします!!