私の旦那様も、数少ない日本語ボキャブラリーを用いて「イエスサマハ、アナタヲ、アイシテイマス。」といいながら日本人に笑顔で対応していますが、新約聖書の1番大切なメッセージって、"JESUS LOVES YOU"なんです。今日はこの神様の偉大な愛について。
ヨハネの福音書 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの手紙1 4:8−10 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
前回も挙げたこの二つの聖句を見てみましょう。「独り子」「御子」というのが、イエス・キリストのことです。聖書には、イエス・キリスト、神そして聖霊は3つであり一体であるもの、とされています。イエス様は地球に人間として生まれてくるまえも、ずっと天国に存在なさっているので、旧約聖書とかを読んでいると、たまに神の御遣いとして登場します。モーセの時代、イスラエルの人々は罪を犯すたびに、生け贄の羊や牛を神様にささげ、その血をもって罪は清められるものとされていました。そうして、人々は予言にある「救世主」の登場を待ち望んでいます。新約聖書にはいると、神様はイヴに約束したように、彼らの子孫から救世主を登場させます。その母として選ばれたのがマリアで、地球上での肉体をもつ母親として、夫のヨセフとイエス様を育てます。(たまに、マリアはずっと処女だったと信じている方がいますが、聖書によると、マリアはイエスを産んだ後、ヨセフと普通に夫婦として子供をつくったのでイエス様には半分兄弟姉妹が何人かいたんですよ。新約聖書の一つ、ヤコブ章を書いた人も、そのうちの1人といわれています。)
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」これは、どういうことでしょうか。わたしたちが生きるようになる、というのは、永遠の命を得るということです。永遠の命って、なんでしょうか。これは、肉体が死んだ後、私たちの魂、霊が神様と共にいることができる、ということです。エデンの園の話をしたときに書いたように、アダムとイヴはエデンの園で神様と共に生きていました。つまり、永遠の命をもっていたのです。しかし、神様と隔絶してしまって以来、私たちの魂は神様から離れてしまい、暗闇をさまようことになってしまったのです。そうして、人間は自分たちで神様を創り出すようになりました。木や石を彫ってそれを神様として拝んだり、黄金の牛をつくってそれを神様として拝んだり。見えなくなってしまった神に、自分たちの罪を認めて許しをこうよりも、神がいないのならば創ればいい、というアイデアに傾倒してしまいました。さて、十戒を思い出してみてください。神様は、第一に「神は私1人である」「偶像を礼拝してはいけない」といっていますが、人間はそれを無視しました。これは、霊が死んでいるため、精神的に盲目になっている状態です。神の正しさを求めるのではなく、自分たちの正しさを押し通そうという姿勢が、そこにみられます。
こんなわけで、人間たちはまったく「救いようのない状態」にはまり、それはさらに泥沼化していきます。誰も、本当の神様を求めなくなってしまったからです。けれど、神様は、自分の作り出した人間たちに情を示します。そして、このままでは皆死んでから地獄に行ってしまうという泥沼状態から人間たちを脱出させるため、イエス様を天国から地上へと送りました。それが、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ということです。
私たち人間は、自分たち自身の努力でその身を地獄から天国へと救うことはできません。「コヘレトの言葉」を読むと、美しい詩としてよく書かれていますが、人間とは本当に何もできないむなしい存在です。また、「ヤコブの手紙」にはこう書かれています。
ヤコブの手紙 4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。
本当の「救い」というのが、慈善事業をどの位したか、とか、どのくらい多額の金を宗教団体に寄付したかとかそういうもので計られてしまったら、カンボジアにいる飢えている子供たちには救われるチャンス、というのはまったくないことになってしまいます。「救い」とは、あくまでも人間すべてに差し伸べられている手、神様からの贈り物なんです。けれど、それを受け取るか、受け取らないかは私たち個人個人の自由です。神様は人間に自由意思を与えられたからです。
よくキリスト教まがいのカルト団体では、寄付金を強要したり、勧誘のノルマがあったり、強制合宿があったりして、これだけの事をやらないと、お前は地獄に落ちる、とか呪われる、とかいう感じで脅されるようです。もしも皆さんもそういう目にあいそうになったら素早く逃げてください。カルト団体は、「恐怖心」を利用してマインドコントロールしますから。けれど、イエス様の愛は、こういう「恐怖」を一掃するものです。これは、くじけそうな時に私をいつも勇気づけてくれた私の大好きな聖句です。
"For God hath not given us the spirit of fear; but of power, and of love,and of a sound mind"(2Timothy 1:7)
テモテへの手紙2 1:7 神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちに与えて下さったのです。
私たちはしょっちゅうSOSを出しています。でも、皆さんはそれを神様にむけてだしていますか?真の助けというのは、神様のみからくるものです。「自分が信じている」と信じている神様が、誰なのかわかっているでしょうか。世の中にはたくさんの嘘の神様があります。でも、それを見極めるのは難しいことではないんです。神様に真実を見せてくれるように頼まないといけなんですが。
ではでは、次回はイエス様が十字架の上でした仕事について!














