2008年12月23日

クリスマスのお話


 

クリスマスといって何を一番に思い浮かべますか?サンタクロース、もみの木、トナカイ、リース、雪、パーティー。。。いろいろなもので隠されてしまっていますが、クリスマスの本来の意味は、CHRISTMASという綴りからもわかるように、イエス キリストの生誕を祝う日です。

ごちゃごちゃと説明するよりも、読んでしまったほうがわかりやすいので、ルカ書をみてみましょう。

 

ルカ2章1節—21節

皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使達が離れて天に去った時、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださった出来事を見ようではないか。」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て,羊飼い達は、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼い達の話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心におさめて、思いめぐらしていた。羊飼い達は、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えた時、幼子はイエスと名付けられた。これは、体内に宿る前に天使から示された名である。

イエス様の出生は、旧約聖書の時代、イザヤ書にすでに予言されていました。

イザヤ書8章14節

わたしの主が御自らあなた達に印を与えられる。見よ、処女(おとめ)が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルEmmanuel=God with us:神が私達とともにあるという意味)と呼ぶ。

イザヤ書9章5節

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。

その後成長したイエスは、ヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川に赴きます。そのイエスをみて、ヨハネはこういいました。

ヨハネの福音書1:29

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」

 さて、上記のイザヤ書では、「権威が彼の肩にある」とありますが、それはいったいどんな権威なのでしょうか。ヨハネの福音書に、イエスがユダヤ人達にはっきりと語っています。

ヨハネの福音書5:21−22

父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きはいっさい子に任せておられる。

 ここでいう「父」とは神様、「子」とはイエス様のことを指します。

 ヨハネの福音書5:24−29

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、ご自身の内に命をもっておられるように、子にも自分の内に命を持つ様にして下さったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。

 つまりイエス様には、裁きを行う権能が神様から与えられている、ということなのです。では、裁きとは、どういった裁きなのでしょうか。

第2コリント 5:10

わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前にたち、善であれ悪であれ、めいめい体をすみかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです

 ローマ章 14:10−11

わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前にたつのです。こう書いてあります。「主は言われる。わたしは生きている。すべての膝はわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」と。それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

 神様は神聖な存在です。私達、罪をもって生まれてくる人間は神様と直接話をすることはできません。私達と神様の間を執りなしてくださるのが、イエス様なのです。そして、神様はそのイエス様に、裁きの権能をお与えになりました。すなわち、私達は自分の罪を反省し悔いるとき、イエス様の名を呼び許しを請うのは、私達の罪を洗い流す権限はイエス様が持っているからなんです。

 ローマ章 8:34

復活させられた方であるキリスト イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執りなして下さるのです。

ローマ章 3:23−26

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト イエスによるあがないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは今まで人がおかした罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じるものを義となさるためです。

 「義」というのは、罪を洗い流された状態のことです。つまり、イエスが十字架にかかり、全人類の罪を背負って死に、3日後に生き返った、という聖書の史実を信じ、神の御子であるイエスに自分も罪から清めてくれるように頼むこと、それが「救われる」ということです。

ヨハネ 3:17−21

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行うものは皆,光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方にこないからである。しかし、真理を行う者は光の方にくる。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

 イエス様が生まれたこのクリスマスの夜、それは暗闇の浮き世に一筋の光が差し込んだ夜なのでした。まだイエス様を信じていない人は、このクリスマス、ぜひ神様からの贈り物である「救い」を受け取ってください。

 クリスマスの定番の曲、「きよしこの夜」は、そんな情景を美しく歌った歌なのでした。

 賛美歌109番

 

清し この夜 星は光り

救いの御子(みこ)は 馬槽(まぶね)の中に

眠り給う いと安く

 

清し この夜 御告(みつ)げ受けし

牧人達は 御子の御前(みまえ)

ぬかずきぬ かしこみて

 

清し この夜 御子の笑みに

恵みの御代(みよ)の 朝(あした)の光

輝けり ほがらかに

 

英語の歌詞およびメロディはCyber Hymnalからご覧ください!

http://www.cyberhymnal.org/htm/s/i/silntnit.htm

 

では、素敵なクリスマスをお過ごしください。。。!!

2008年12月22日

今朝はまだ夜も明けないうちに、夢を見て目が覚めてしまいました。というのも、本当にたあいのない短い夢なのですが。

トラックのような車が中二階のようなところに引っ掛けてあり、その両側は空いていて、地下が見えていました。あなたが、その車の上に飛び乗って、車磨きを始めるのです。私は、落ちると死んじゃうから危ないよ、と言っているのですが、それも聞こえないようで、鼻歌まじりで窓を洗っています。そこにあなたの友人がやってきて、同じ様に車の掃除をするのですが、その友人はちゃんと命綱をつけているので落ちて死ぬということはないのです。そういうわけで、その友人は車に飛び乗りました。その拍子に、あなたがつるりと足を滑らせて落ちてしまいました。私は慌ててなんどもあなたの名前を上から呼びましたが,地下にあなたの姿は見えず、消えてしまったのでした。

いっけん、なんてことはない夢なのですが、臆病な私は怖くてすっかり寝付けなくなってしまいました。だって、まだ「救われて」いないあなたは、つるりと足をすべらせたら、今日にだって地獄に落ちて永遠に会えなくなってしまう。けれど、イエスの福音を信じて救われている友人は、命綱があるから、肉体が死んでも天国でかならず会えるという確信がある。

地獄や天国は、架空の存在ではありません。もし架空なら、なぜどの国にいっても、同じような地獄絵図があり、また天国の話が存在するのでしょうか。ちゃんと覚えていないのだけれど、昔教科書で読んだ芥川龍之介のクモの糸に、ちょっと似ていて、イエスの福音は天からのびて来てあなたを地獄から救い出そうとする、細い一本の蜘蛛の糸なんだけれど、あなたにはその蜘蛛の糸がみえていても、それを頼りに上ろうとしない。私はその糸につかまりながら、何度もあなたを誘うのですが、あなたの目は暗闇におおわれていてその一筋の光を見いだそうとしない。お釈迦様は無慈悲にもカンダタを地獄に落としてしまうけれど、イエス様は地上という暗闇にわざわざおりて来てあなたを地獄行きの定めから救い出す道をつくってくれたのです。

プライドや意地、無頓着さを捨てて今すぐに自分の罪深さを悔いて、イエス様にその罪を清めてくださるようにお願いして下さい。わたしは、この浮き世での肉体が死んだ後も、かならず天国であなたに会いたいのです。

ローマ章5;8 わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、神は私達に対する愛を示されました。

ローマ章6;23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト イエスによる永遠の命なのです。

ローマ章10;9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる

とあります。

ローマ章13;11 あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰にはいったころよりも救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。日中を歩む様に、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

神様を信じない人には、ばかな戯言と思うかもしれませんが、私は、大切なあなたに決して地獄にはいってほしくないのです。この肉体が死んでも、天国で会おうね、と言える様に。

2008年11月14日

「いい人」診断テスト

あなたは自分が「いい人」だと思いますか? はい/いいえ

死んだら天国に行くのに充分なほど「いい人」ですか? はい/いいえ


では質問です。

1.嘘をついたことがありますか?

2.何か盗んだことはありますか?

3.親の言うことに従わなかったことはありますか?

4.浮気や不倫を想像だけでもしたことがありますか?


もしこれらの質問の回答がすべて「はい」の場合、あなたは自分で自分は「嘘つきの泥棒で反抗する姦淫者」と認めたということです。神様の定めた規律、「十戒」に即すると、これらはれっきとした「罪」ですので、上の質問に一つでも「はい」と答えた人はみな「罪人」です。

では、もう一度聞きます。

あなたは自分が「いい人」だと思いますか? はい/いいえ

死んだら天国に行くのに充分なほど「いい人」ですか? はい/いいえ

世の中で「罪」をおかすと、それに即した「処罰」が与えられます。

今あなたは車のスピード違反により人を跳ねてしまい、裁判所にいると想像してみてください。言い渡された罰金および慰謝料は、あなたには払えない金額です。そこであなたは裁判官に言いました。「もう二度としないと約束しますから許してください」裁判官は言うでしょう。「それは素晴らしい、しかし処罰は処罰だ。罰金を払い刑務所に行くことはかわらない。」「裁判官、私はあなたが本当に素晴らしい人だと知っています。どうぞ容赦してください。」「 処罰は処罰だ。罰金を払い刑務所にいくことはかわらない。」「私は自分の宗教にちゃんとお金をおさめています。よい行いもたくさんしています、どうぞ許してください。」「それはそれ、これはこれだ。君が違反罪と殺人未遂罪をおかした事実はかわらない。 処罰は処罰だ。罰金を払い刑務所にいってもらう。」あなたは自分の罪を認め、心から何度も何度も裁判官に謝り、これからは本当に注意して運転すると約束すると懇願しましたが、裁判官はあなたを有罪と認め、木槌をうちました。あなたは与えられた刑罰にうちひしがれ、心重く裁判所を出ようとしたそのときです、見知らぬ人があなたの懺悔し、反省している様子を目の当たりにして、違反金および慰謝料そして釈放金をあなたのかわりに肩代わりしてくれるというのです。あなたはそれを喜んで受けとり、釈放されることを選びますか、それともその申し出を断って、刑務所に行くことを選びますか?

天国にいくには、「良いこと」を「悪いこと」以上にすればいいんじゃないの?と言う方がいるでしょう。それか、死んでから天の裁判官に謝ればいいと思っている人もいるでしょう。または、死んだあとのことなんかどうでもいい、考えたくないという方もいるでしょう。

上のテストでもわかるように、私達人間にはひとりも「罪人」でない人はいません。あなた自身が何の宗教活動に身を委ねていようと、この肉体が死ぬと、魂は天の裁きの座に迎えられます。あなたがどのような輪廻天性や極楽浄土を夢見ていようと、この事実はかわりません。この裁きの座で、すべての「罪人」は地獄に落とされるときまっています。聖書には「臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝むもの、すべてうそを言う者、このような者達に対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(ヨハネの黙示録20;8)とあります。 ということは、すべての人間は地獄にいくと定められているのでしょうか?その通りです。神がお造りになった最初の人間、アダムが神に背いて「罪」をおかして以来、人間はその「罪」をだれでも抱えて生まれてくるのです。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ章5:12)

では、その地獄から抜け出すにはどうしたらいいのでしょうか?

さて、先ほどの法廷での話に戻ってみましょう。あなたは「よい行い」によっても、「宗教活動」によっても、「裁判官への謝罪」によってもその刑罰から逃れることはできませんでした。しかし、そんなあなたの懺悔、反省、懇願を聞いてそれを肩代わりしてくれる人が現れたため、その刑罰から逃れることができました私達のおかした罪に対する刑罰は「死」です。これは、肉体の死ではなく、魂の死をさします。先ほどの話と同じく、私達は自分の力ではこの刑罰から逃れることができないのです。しかし、私達が自分が罪人であると認め、その罪を懺悔し、反省し、懇願する様子を聞いていて、この刑罰を肩代わりしてくれる方がいるのです。それが救世主であるイエス キリストです。聖書にはこうあります。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ章6:23)「神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16、17)「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私達のために死んで下さったことにより、神は私達に対する愛を示されました。」(ローマ5:8)

私達が、自分の罪に対し、懺悔、反省、そして死から逃れることの懇願をイエス キリストにするならば、彼は十字架にかかりその血をもってすでに私達の罪を洗い流してくれているのです。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)

イエス キリストの福音とは、ちょうど裁判所で刑罰を肩代わりしてあなたを釈放してくれた見知らぬ人と同じ状況です。神は人間を地獄への道から救うべく、イエス キリストを天から地上に使わし、その肉体をもって人間の罪を肩代わりして、天にもどってくるようにしたのです。私達は、その「見知らぬ人」の釈放金をありがたく受け取るか、こばんで刑務所にいき苦しむかの選択をすればいいのです

今日あなたは、自分が今晩死ぬとしたら、天国と地獄とどちらに行くか確信をもって知っていますか?あなたは「見知らぬ人」からの釈放金を喜んでうけとりますか?それとも拒むのでしょうか?選択はあなた次第です。

イエス キリストの奇跡について非常にわかりやすい説教があるので、ぜひ見て下さい。Billy Grahamによるものです。Billygraham.orgからです!

http://link.brightcove.com/services/link/bcpid1137883267/bclid1152290596/bctid1628282669

イエス キリストの救いを受けたい方は、心から自分の今までして来た罪を悔い、反省を伝え、彼の十字架の上でのあがないの業を信じ、救われたいということをお祈りしてみて下さい.神様からの約束はすべて聖書にかかれていますので、毎日少しずつ読んで魂の栄養にしましょう!!

2008年10月23日

感謝

またまたご無沙汰してしまいました。子育てって、楽しいですね。幸い私は家にいられる主婦なので子供の成長が毎日じっくり見られてうれしいです。毎日着実に脳が発達していく様子よくわかります。タイタス君は昨日初めてにっこり口をあけて笑いましたー。可愛くてたまりませんね。(親ばか。)昨日はとうとうおばあちゃん(母)が東京に帰ってしまいました。そんなわけで、炊事洗濯掃除の再開です。ちなみに写真のケーキは,4日に教会の皆様が開いてくださったベイビーシャワーでいただいたものです。これでタイタス君ベイビーシャワー3回もしていただきました。本当に神様の愛に恵まれた子なんだと実感し、つくづく神様に感謝です。


イエス様を知ってからそろそろ6年、最初は半信半疑だったり聖書を読まなかったり、相変わらず嘘をつき続けたりしていましたが、神様はその手のうちに私の人生を救ってくださり、素晴らしい恵みで満たしてくださっていることを実感しています。いろいろな宗教や魔術といったものに惑わされていたものの、心からイエス様を求めてよかったです。私を縛り付けていた様々なことから脱出させてくれたのは、イエス様の導きによるものであると確信しています。


詩編107:1−9

恵み深い主に感謝せよ 慈しみはとこしえに」と主にあがなわれた人々は唱えよ。主は苦しめる者の手から彼らをあがない 国々の中から集めてくださった 東から西から、北から南から。彼らは、荒れ野で迷い 砂漠で人の住む町への道を見失った。飢え、渇き、魂は衰え果てた。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救ってくださった。主はまっすぐな道に彼らを導き 人の住む町に向かわせてくださった。主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。主は渇いた魂を飽かせ 飢えた魂を良いもので満たしてくださった。

O give thanks unto the LORD, for he is good; for his mercy endureth for ever. Let the redeemed of the LORD say so, whom he hath redeemed from the hand of the enemy; And gathered them out of the lands, from the east, and from the west, from the north, and from the south. They wondered in the wilderness in a solitary way; they found no city to dwell in. Hungry and thirsty, their soul fainted in them. Then they cried unto the LORD in their trouble, and he delivered them out of their distresses. And he led them forth by the right way, that they might go to a city of habitation. Oh that men would praise the LORD for his goodness, and for his wonderful works to the children of men! For he satisfieth the onging soul, and filleth the hungry soul with goodness.

すっかり体力も元通りになったので、ようやく教会でも聖歌隊に参加したりする活動を再開しました。たいしたことはできないけれど、生きて行く中で少しでも神様に対する感謝を身をもって示すことのできる人間になりたいと思っています。

そんな思いがとてもよく現れた聖歌があるので紹介します。大好きな伝道師のMark Rogers(マーク ロジャース)さんが歌う映像をYou Tubeで発見しました。

http://www.youtube.com/watch?v=R02bKn5BzK8

The Longer I Serve Him
By William J.Gaither

Since I started for the Kingdom, Since my life He controls
Since I gave my heart to Jesus
The longer I serve Him, the sweeter He grows

The longer I serve Him the sweeter He grows,
The more that I love Him, more love He bestows
Each day is like heaven, my heart overflows
The longer I serve Him the sweeter He grows.

Every need He is supplying, plenteous grace He bestows
Every day my way gets brighter
The longer I serve Him, the sweeter He grows

The longer I serve Him the sweeter He grows,
The more that I love Him, more love He bestows
Each day is like heaven, my heart overflows
The longer I serve Him the sweeter He grows.



(意訳)
私が王国のために生きようと決めてから、
神様は私の人生をコントロールしてくださっている。
イエス様に心を捧げて以来、彼のために働く程、彼はより甘く私の心に大きくなっていく

彼のために働く程、彼はより甘く私の心に大きくなっていく
私がイエス様を愛すほど、より一層愛を与えてくださる
毎日私のハートにはその愛が満ちあふれ、まるで天国のようだ
彼のために働く程、彼はより甘く私の心に大きくなっていく

神様は私の必要をすべて満たし、充分な恵みを与えて下さる
毎日私のゆく道には光が増し
彼のために働く程、彼はより甘く私の心に大きくなっていく

彼のために働く程、彼はより甘く私の心に大きくなっていく
私がイエス様を愛すほど、より一層愛を与えてくださる
毎日私のハートにはその愛が満ちあふれ、まるで天国のようだ
彼のために働く程、彼はより甘く私の心に大きくなっていく



2008年9月27日

健康第一

皆様、お久しぶりです。この3週間すっかりタイタス君に夢中で他の事が一切手につかずにおりました。幸い東京から母が来てくれているので、家事一般を全ておまかせしちゃっておりますが。つくづく協力的な家族を持って幸せだと思います。自分もそういう親になりたいです。
この度、日本とビデオSkypeするためにお父様にibookを買っていただきました。いままで使っていたPowerbookG4にはカメラがついていなかったもので。そしてiphoto’08で写真集が安く簡単に作成できちゃうことを知り、今どきのパソコンはすごいねえ、とつくづく感心しております。早速タイタスの「最初の一ヶ月」写真集を作成中です。(笑)

詩編36:6-10
主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。

Thy mercy, O LORD, is in the heavens; and thy faithfulness reacheth unto the clouds. Thy righteousness is like the great mountains; thy judgments are a great deep: O LORD, thou preservest man and beast. How excellent is thy loving kindness, O God! Therefore the children of men put their trust under the shadow of thy wings. They shall be abundantly satisfied with the fatness of thy house; and thou shalt make them drink of the river of thy pleasures. For with thee is the fountain of life: in thy light shall we see light.

この詩はダビデ王によるものです。いかに神を信頼して生きている人が幸せか、ということを歌っている箇所です。神様の裁きは常に正しく、それは世の中のように、善人を罰し悪を赦したりすることはありません。神の慈しみと恵みにあずかる人は、その大きな翼の陰で、悪魔の手から守られています。また、その恵みはたえることなく湧き出でる泉のように、生活を潤してくださいます。私たちの歩みの一歩一歩を照らしてくださる光とは、イエス様であり、聖霊の導きです。その大いなる光によって、私たちの魂は命を得、光の中を進んでいくことができるわけです。

この妊娠—出産を通して、また私はつくづく神様の恩恵を受けました。何をおいても、「健康」というものが最も大切な事だと思うのですが、引っ越しやら旅行やらいろいろあったにもかかわらず、この9ヶ月まったく風邪も引かず、具合も悪くならず、ついでに安産で、よくお祈りしていたことが聞き届けられたのだと、心から感謝しています。もちろん睡眠をきちんととったり、栄養バランスのいい食事をしたり、という心がけはしていましたが、毎日の健康って、神様からいただくものなので、本当にありがたいです。

さて今日は1971年に書かれた新しめのhymnをお届け。

You Tube からどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=QH56-aEQlcc&feature=related

Because He Lives
By William J and Gloria Gaither

God sent His Son they called Him Jesus
He came to love, heal and forgive
He lived and died to buy my pardon
An empty grave is there to prove my Savior lives

(Repeat)
Because He lives I can face tomorrow
Because He lives all fear is gone
Because I know He holds the future
And life is worth the living just because He lives

How sweet to hold a new born baby
And feel the pride and joy he gives
But greater still the calm assurance
This child can face uncertain days because He lives

(Repeat)

And then one day I'll cross the river
I'll fight life's final war with pain
And then, as death gives way to victory
I'll see the lights of glory and I'll know He lives

(Repeat)

(意訳)
神様が独り子を送られた その名はイエス
彼は愛し、癒し、そして赦すためにやってきた
そして私の罪を償う為に生きて死んでいった
その空っぽの墓は、私の救世主が生きている証し

(くり返し)
彼が生きているから 私は明日に立ち向かえる
彼が生きているから すべての恐れは消える
彼が未来を手にしていると知っているから
彼が生きているからこそ この世は生きる価値がある

産まれたての赤ん坊を抱くことはなんと素晴らしいことか
そしてその子のくれる誇りと喜びを感じる
しかしより素晴らしいのは 静かな確信
この子供はイエス様が生きているからこそ未知の日々に立ち向かえる

そしてある日 私は川を渡る
人生の最後の戦いを、痛みと共に戦う
そして死が勝利へと道を譲る時
わたしは栄光の光を見、イエス様が生きていることを知る

この曲は、次の聖句がテーマになっています。

マタイ28:6-7
あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所をみなさい。それから急いで行って弟子たちにこう告げなさい。あの方は死者の中から復活された。

He is not here: for he is risen, as he said. Come, see the place where the LORD lay. And go quickly, and tell his disciples that he is risen from the dead.

イエス様は、十字架にかけられて死んだあと、よみがえって天に帰っていきます。そのため、彼の遺体が安置されたお墓は、今も空っぽなのです。そして、生き返ったイエス様は今も生きていて、私たち人間が罪を悔い改めて赦しをイエス様に乞う度に、ひとりひとりをお救いになられます。この曲は、そんなイエス様がいつもいてくださるから、見えない明日に、恐怖を覚えることもなく立ち向かって生きていける、と歌っているんですね。
とっても勇気づけられる曲です。皆さんも不安や心配に胸がいらいらしたりする時は、イエス様の救いを信じて、未来に希望を持っていきましょう!

2008年9月13日

ベイビー誕生☆

報告する余裕もなく1週間が過ぎましたが、2008年9月6日午後7時12分に待望の長男が誕生いたしましたー。名前はTitus Ken McKittrick (タイタス・賢・マケトリック)です。これからよろしくお願いします。ダニーと毎日親バカしています。成長が楽しみです。

2008年9月4日

オムツ・バースデー・ケーキ



出産予定日もいよいよあと2週間と近づいてまいりました。もういつ出てきてくれてもかまわないんですが。昨日は、ダニーの職場の方々が、サプライズ・ベイビーシャワーをして下さいました。 女性が多いオフィスなので、皆ママさんたちです。テーマは「おむつ」だそうで、紙おむつとお尻拭きを主にプレゼントしてくれて、当分おむつは買わなくてよさそうです。 写真は、ダニーの上司のメアリーさんが作ったバースデー・ケーキです。オムツを1つ1つ丸めて作ってくださったそうで、、、芸術的です。クッキーはお店で買ったといってましたが、甘くて大きくて非常にアメリカンなクッキーでございました。それにしても、この子は産まれる前からいろんな人にたくさん祝福されて、幸せ者です。

ヤコブの手紙1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。
Every good gift and every perfect gift is from above, and cometh down from the Father of lights

赤ちゃん用の服も、すでに0歳児—6ヶ月用まで様々に取りそろえられ、つくづく神様に感謝しています。こんなにいつもたくさんの恵みを下さる神様に、もっと日々の生活を通して貢献していけたら、と思います。

詩編33:12-15 いかに幸いなことか、主を神とする国。主が嗣業として選ばれた民は。主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。
Blessed is the nation whose God is the LORD; and the people whom he hath chosen for his own inheritance. The LORD looketh from heaven; he beholdeth all the sons of men. From the place of his habitation he looketh upon all the inhabitants of the earth. He fashioneth their hearts alike; he considereth all their works.

神様は、本当に私たち一人ひとりの事を天の父として気にかけていてくださいます。貴方が今救われていても、いなくても、神様はあなたの言動、行動、思考すべてわかってらっしゃいます。

マタイの福音書10:29-31
二羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地におちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

Are not two sparrows sold for a farthing? And one of them shall not fall on the ground without your Father. But the very hairs of your head are all numbered. Fear ye not therefore, ye are of more value than many sparrows.

本当に安い金額で売られている雀さえも、神様の許しがなければその命を落とすことはありません。また、神様は私たち一人ひとりの、髪の毛の本数までご存知です。小さな雀すら守ってくださる神様ですから、私たちのことも一人ひとり、よく見ていてくださいます。

詩編33:16-19 王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。
There is no king saved by the multitude of an host: a mighty man is not delivered by much strength. An horse is a vain thing for safety: neither shall he deliver any by his great strength. Behold, the eye of the LORD is upon them that fear him, upon them that hope in his mercy; to deliver their soul from death, and to keep them alive in famine.

人間は、とかく自分たちの力や、武器、戦力など目に見えるパワーに信頼を置きがちですが、もっとも偉大な力は天の神様にあることを忘れてはいけません。なにしろ、人間たちの頼る武器や頭脳そのものをお造りになった方ですから。1番大事なことは、いつでも人間の力ではなく、神様に依り頼むことなんですね。また、命の救いを求めること、地獄への定めから天国への道へを望むことを忘れないで下さい。

詩編33:20-22 我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように、主を待ち望む我らの上に。
Our soul waiteth for the LORD: he is our help and our shield. For our heart shall rejoice in him, because we have trusted in his holy name. Let thy mercy, O LORD, be upon us, according as we hope in thee.

この詩編を書いたのはダビデ王ですが、彼はその生涯を通して、心から神様にのみ信頼を置いていました。あらゆる敵が彼を狙っている時も、自分の罪によって神様から罰せられているときも、心の全てを打ち明けて祈りを通して助けを求め、また神様の恵みに感謝を捧げています。私たちも、そんなダビデ王のような心構えをもって生活していきたいですね。

詩編63:3-6 今、私は聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたを褒め称えます。命のある限り、あなたをたたえ、手を高くあげ、御名によって祈ります。わたしの魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい、私の口は賛美の声をあげます。
To see thy power and thy glory, so as I have seen thee in the sanctuary. Because thy loving kindness is better than life, my lips shall praise thee. Thus will I bless thee while I live: I will lift up my hands in thy name. My soul shall be satisfied as with marrow and fatness; and my mouth shall praise thee with joyful lips.

詩編63:7-9 床につく時にも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。あなたは必ず私を助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。私の魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手でわたしを支えてくださいます。
When I remember thee upon my bed, and meditate on thee in the night watches. Because thou hast been my help. Therefore in the shadow of thy wings will I rejoice. My soul followeth hard after thee: thy right hand upholdeth me.

神様にお祈りをして、助けを求めたとき、その解決法となる知恵や答えはどうやって知ることができるのでしょうか?それは、もちろん聖霊の導きに従うということもありますが、聖書の御言葉から教えていただくということが最も大事です。聖書はこう約束しています。

ヨシュア記1:8 この律法の書をあなたの口から話す事無く、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
This book of the law shall not depart out of thy mouth; but thou shalt meditate therein day and night, that thou mayest observe to do according to all that is written therein: for then thou shalt make thy way prosperous, and then thou shalt have good success.

もちろん、私たち人間はどうしたって罪深い存在ですから、全てを忠実に守るなんていう完璧なことはできないんですが。大切なことは、自分自身に頼らず、聖書の御言葉を完璧に成し遂げるイエス様のような人物像に、なるべく近づけるように、神様に助けていただくことですね。

箴言3:5-7 心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。
Trust in the LORD with all thine heart; and lean not unto thine own understanding. In all thy ways acknowledge him, and he shall direct thy paths. Be not wise in thine own eyes: fear the LORD, and depart from evil.

いろいろな困難や問題が浮上した時も、イエス様により頼み、神様にその願いを聞き入れていただくこと、自分ではできないと思うことも、ひとつひとつお祈りして道筋を問うこと、それらが神様からの恩恵を受け取る方法です。

Philippians4:13 I can do all things through Christ which strengtheneth me.
(フィリピ 私を強めて下さるイエス・キリストを通して、わたしにはすべてが可能です。)

苦しかったり、壁にぶつかったりする時も、聖書の御言葉に励まされながら、毎日少しずつ進んでいきましょう!

2008年8月31日

選択のススメ

田舎でのんびりと主婦をしているもので、たっぷりある時間を利用して部屋のインテリアを飾る絵などを描いています。(って一応イラストレーターが仕事のはずなんですが。)試作として、Salvation Armyの店で買った古い木製の壁掛けの上に、大好きなHymnとそれに合った聖句をあしらった絵をペイントしてみました。ただいま第2作目を製作中。家の壁にほとんどなにも飾っていないので、せっせと絵を描いては飾りたいと思います。かわいいアメリカン・ハウスにしたいし。アメリカの奥様たちは、デコレーションとか大好きで、しかも皆けっこうセンスがいい。ロンドンのデザインの学生達なんかよりも、ずっとセンスのいい品を取りそろえ、しかも自分たちで作っちゃったりするんですね。そんなわけで、うちもあんまり壁が空っぽだと「あら、殺風景な家ね。」という印象になってしまうので、努力したいとおもいます。
ついでにもう一つ、家の名札もつくってみました。一応、木彫りです。色をどうしようかと考えたんですが、まあ、折角なのでアメリカらしくPatriot的な色あいに。というか、さりげに慶應カラーなんですが。
この名札の下にあるJOSH 24:15というのは、旧約聖書のヨシュア記、第24章15節を指します。

わたしとわたしの家は主に仕えます。As for me and my house, we will serve the LORD. という部分です。」よく、クリスチャンのお家に掲げてある言葉なんですよ。ヨシュア記は、モーセが死んだ後、イスラエルの民を今度はヨシュアが神様の御言葉に従って導いていくお話なのですが、この24:15の部分では、ヨシュアが、すぐに偶像崇拝に陥りがちな民に、「君たちはどの神を拝むつもりかちゃんと選びなさい」と悟し、心を決めさせている所です。もちろん、本物の神様は1人しかいないのですが、旧約聖書の時代から、人々はいろいろな神の像やら神殿やらを造り出してはそれら偶像を拝んでいたんですね。イスラエルの民は、唯一本当の天の神様に導かれていたのですが、目に見えないものだから、他国の人々の偶像を彼らも崇拝しはじめ、それを見かねた神様は、彼らを敵の手に渡したり、罰を与えたりするわけです。それでも、彼らが反省するとまた助けだして、とそんなくり返しが見られます。

ヨシュア記 24:14-15 「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主につかえます。」
Now therefore fear the LORD, and serve him in sincerity and in truth: and put away the gods which your fathers served on the other side of the flood, and in Egypt; and serve ye the LORD. And if it seem evil unto you to serve the LORD, choose you this day whom ye will serve; whether the gods which your fathers served that were on the other side of the flood, or the gods of the Amorites, in whose land ye dwell: but as for me and my house, we will serve the LORD.

ヨシュア 24:16-18 民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、私たちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、私たちの行く先々で、また私たちが通ってきた全ての民の中で、私たちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民を私たちのために追い払ってくださいました。私たちも主に仕えます。この方こそ、私たちの神です。」
And the people answered and said, God forbid that we should forsake the LORD, to serve other gods; for the LORD our God, he it is that brought us up and our fathers out of the land of Egypt, from the house of bondage, and which did those great signs in our sight, and preserved us in all the way wherein we went, and among all the people through whom we passed: and the LORD drave out from before us all the people, even the Amorites which dwelt in the land: therefore will we also serve the LORD; for he is our God.

19-20 ヨシュアはしかし、民に言った。「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる」
And Joshua said unto the people, Ye cannot serve the LORD: for he is an holy God; he is a jealous God; he will not forgive your transgressions nor your sins. If ye forsake the LORD, and serve strange gods, the he will turn and do you hurt, and consume you, after that he hath done you good.

21-23 民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」というと、ヨシュアは民に言った。「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなた達自身である。」彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
And the people said unto Joshua, Nay; but we will serve the LORD. And Joshua said unto the people, Ye are witnesses against yourselves that ye have chosen you the LORD, to serve him. And they said, We are witnesses. Now therefore put away, said he, the strange gods which are among you, and incline your heart unto the LORD God of Israel.

というわけで、ここでイスラエルの民は本当の神様を信じることに決めるのですが、また時がたって列王記上(1Kings)の時代になると、ふたたびイスラエルの王たちは神様から離れて、偶像であるバアルというものを拝んでいます。そして、バアルを崇める様々な預言者達も現れ、魔術などを用い人々を惑わしているのですが、主の預言者であるエリヤ(Elijah)が本物の神様はバアルではないということを実証するために、このバアルの預言者達と対決します。

列王記上18:21 エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民は一言も答えなかった。エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ1人、主の預言者として残った。バアルの預言者は450人もいる。我々に2頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに1頭の雄牛を選ばせて、割いて薪の上にのせ、火をつけずにおかせなさい。私も1頭の雄牛を同じようにして、薪の上にのせ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名をよぶことにしよう。火を持って答える神こそ神であるはずだ。」

ということで、まずバアルを崇める預言者たちは必死にバアルに祈るのですが、当然なにも起きません。また、彼らはその習わしに従って、大声をあげたり、剣や槍で体を傷つけて血を流し、狂ったように叫び続け、、となんだか物騒なことになります。

詩編115:2-8 なぜ国々は言うのか「彼らの神はどこにいる」と。私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。国々の偶像は金銀に過ぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声をだせない。偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる。
Wherefore should the heathen say, Where is now their God? But our God is in the heavens: he hath done whatsoever he hath pleased. Their idols are silver and gold, the work of men's hands. They have mouths, but they speak not: eyes have they, but they see not: They have ears, but they hear not: noses have they, but they smell not: They have hands, but they handle not: feet have they, but they walk not: neither speak they through their throat. They that make them are like unto them; so is every one that trusteth in them.

と、このように偶像とは人間が造りだしたものなので、けっきょくバアルなんていう神様は存在しないので、いくら呼んでも出てこないわけです。一方エリヤはそんな様子を見てから、主に祈りをささげると、天から主の火が下ってきて、民衆は皆主のみが神である、と立ち返るというお話です。

この箇所を読むと、いつも私は世界不思議発見やNHKスペシャルで見たアフリカの原住民とかが体に鉄棒とか突き刺しながら、トランス状態に陥って神と交信する、なんていうシーンを思い出すんですが、ああいうシャーマニズムって、どうみても悪魔にとりつかれているようにしか見えないんですが・・・。なんか怖いじゃないですか、皆目とか血走ってるし、泡ふいて血流してるし。このシーンって、すごくこのバアルの預言者たちがやっていたことと重なって見えます。

まあ、それはさておき、ここでの重要ポイントは、「選択」することです。私たちは、大きなことから小さなことまで、毎日いろいろな「選択」に直面します。朝ご飯をパンにするか、シリアルにするか、から、大学をどこに行くか、誰と結婚するか、車・家を買うかどうするか・・・等々。ここでは、「自分はどの神様に仕えるか」の選択です。これって、1番大事な事なんですが、現代だとどこの国にいっても「なんとなくクリスチャン」や「なんとなく仏教徒」「なんとなくムスリム」=「別にどれでもいいんだけどさ、うち、祖父母がOOだからー」という人がすごく多いです。ちなみに、そういう人はその宗教の信仰の内容すら知らない人が大半です。私自身、普通に寺に家代々のお墓があって(仏教)、正月はおみくじひいてお祈りして(神道)、なんとなく先祖の霊が守ってくれているらしいと信じ(ご先祖崇拝)、神様ってどこにいるんだろうと天使の飛び交う天国を想像し(キリスト教)、そんなことをしながらも、最終的には深く神様について考えない、というような感じで育ちました。神様の存在を、自分が困った時とかしか求めないし、誰に祈っているのかきちんと考えたこともありませんでしたね。しかし、どの神様に祈っているのか、というのはものすごく大切なことです。そして、その神様は本物であるのか、というのを知っていることは必要不可欠です。だって、自分が病気になったときに、偽物のお医者さんにはかかりたくないですよね。それと一緒で、自分は何を信じているのか、確認することって大事です。

マルコの福音書 8:36-37 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
For what shall it profit a man, if he shall gain the whole world, and lose his own soul? Or what shall a man give in exchange for his soul?

この世の価値観は、財産や所有物をいかに増やしお金持ちになるか、ということにかなり傾いています。けれど、聖書はこの世の後の話しをしています。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」私たちの魂は、肉体が死んだ後必ず天国か地獄かに行きます。それは、永遠の命を手にするか、永遠に燃える火の中で苦しみ続けるかの選択です。しつこいようですが、天国にいく道はたったひとつです。本物の神様を信じ、イエス・キリストを通して主に罪の赦しを乞い、天国への道へ進ませていただくことだけです。聖書にはっきりと記されたこの真実は、とても単純なことのようで、多くの人が「選択」を誤るんですね。聖書にある主はこんな神様です。

イザヤ書45:18-19
神である方、天を創造し、地を形作り造り上げて、固く据えられた方、混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形作られた方、主はこう言われる。わたしが主、ほかにはいない。わたしは隠れた所で、地の闇の所で語ったことはない。ヤコブの子孫に向かって混とんの中にわたしを求めよ、と言ったことはない。わたしは主、正義を語り、公平を告知する者。

For thus saith the LORD that created the heavens; God himself that formed the earth and made it; he hath established it he created it not in vain, he formed it to be inhabited: I am the LORD; and there is none else. I have not spoken in secret, in a dark place of the earth: I said not unto the seed of Jacob, Seek ye me in vain: I the LORD speak righteousness, I declare things that are right.

45:20-21 国々から逃れてきた者は集まって、共に近づいてくるがよい。偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ、救う力の無い神に祈る者。意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ、以前から述べていたかを。それは主である私ではないか。私をおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない
Assemble yourselves and come; draw near together, ye that are escaped or the nations: they have no knowledge that set up the wood of their graven image, and pray unto a god that cannot save. Tell ye, and bring them near; yea, let them take counsel together: who hath declared this from ancient time? Who hath told it from that time? Have not I the LORD? And there is no God else beside me; a just God and a Saviour; there is none beside me.

私の信じる神様、主は唯一イエス・キリストを通して人間に魂の「救い」を与えて下さる神様です。今、あなたが信じている神様は、死後にあなたの魂を天国へ導いてくれると約束してくれていますか?それも、自分たちの罪を肩代わりしてくれて、あくまでも贈り物としてその偉大な業を人間たちに見せてくれたでしょうか?今、自分が信じている神様が誰なのか、一度きちんと調べてみてください。そして魂の救済を求めるならば、あなたもいまが「選択」する時です!

2008年8月28日

The Pilgrim's Progress

今日は超オススメの本をご紹介。John Bunyan作の名作Pilgrim's Progress.邦訳バージョンは「天路歴程」という題名です。日本語訳の方はまだ読んでみていないのでどの訳がオススメかは言えないのですが、この本は17世紀のイギリスのBaptistの牧師さんが、聖書そのままの福音を伝えていたために捕まり、牢屋に入れられている間に書いたもの。(政治がらみで宗教も思想操作のためにねじ曲がっている時代だったのでしょう) この本は、クリスチャンの信仰の成長を寓話で、聖書の御言葉にそってものすごく巧みに描写したもので、本当におもしろいです。" City of Destruction" (破滅の町)に住んでいたChristian(クリスチャン:主人公)が、さまざまな困難をくぐり抜けながら"Celestial City"(天の都)にたどり着くまでの物語。聖書の内容をしっていればいるほど、またクリスチャンの方は自分の救いや成長の体験と照らし合わせ、納得しながら読めると思います。注釈に「聖書のこの箇所」とかヒントがでているので、知らない人もついでにお勉強もできていいかも。是非読んでみてください。

Pilgrimついでに、今日はFanny Crosby作の"The Pilgrim's Journey"という曲をご紹介。Cyberhymnalからです。

http://www.cyberhymnal.org/htm/p/i/pilgrimj.htm

The Pilgrim's Journey
By Fanny Crosby , music by W.Howard Doane

Slow to anger, full of kindness,
Rich in mercy, Lord, Thou art,

Wash me in Thy healing fountain,
Take away my sinful heart.

-Refrain-
I would go the pilgrim's journey,
Onward to the promised land;

I would reach the golden city,
There to join the angel band.

Thou wilt never, never leave me,
If I give myself to Thee,

Teach, O teach me how to praise Thee,
Tell me what my life should be.

Refrain

May Thy ever gracious spirit,
Lead me in the way of truth,

May I learn the voice of wisdom,
In the early days of youth.

Refrain

O! how sweet to rest confiding,
On Thy Word that cannot fail,

Strong in Thee, whate'er my trials,
Through Thy grace I must prevail.

Refrain

(意訳)
忍耐強く、慈しみに満ち、恵みに富んだ主よ、貴方の癒しの泉で私を洗い、
この罪深い心を取り去ってください。

—繰り返しー
私は旅人の道をゆく、約束の土地へ向けて進む。
その黄金の都市にたどり着き、天使たちの音楽隊に加わるのだ

主よ、貴方は決して私を見捨てはしない、私が自身をあなたに捧ぐなら。
主よ、どうぞどのように貴方を讚えるべきか教えてください、
そして私の人生とはどうあるべきかを。

あなたの慈悲深い聖霊が、私を真実の道へお導きくださるように。
まだ若いうちに、あなたの知恵の声をよく学べますように

あなたを信頼し安らぐ甘い時、あなたの御言葉の上に失敗はない。
どのような困難があろうとも、あなたの慈しみの中で力強く、打ち勝たねばならない。


Pilgrim's Progressの物語の中心軸となるのもそうですが、クリスチャンとしての歩みのなかで最も重要なものはFAITH(信頼、信仰)です。それも、「イエス様による救い」に対する信頼が鍵です。

エフェソ2:8-9 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
For by grace are ye saved through faith; and that not of yourselves: it is the gift of God: not of works, lest any man should boast.

天国へ行く道は、決して「善い行い」をたくさんして、天秤に載せて「悪い行い」よりも上回ったらいかれる、というものではありません。上の聖句はそのことをはっきりと伝えています。なぜなら、どんなに人間の目にとって「善い行い」も、神様の目にとってはすべて等しく卑しいものだからです。

イザヤ書64:5 私たちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった。私たちは皆、枯れ葉のようになり、わたしたちの悪は風のように私たちを運び去った。
But we are all as an unclean thing, and all our righteousnesses are as filthy rags; and we all do fade as a leaf; and our iniquities, like the wind, have taken us away.

テトスへの手紙3:5-7 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、私たちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望通り永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
Not by works of righteousness which we have done, but according to his mercy he saved us, by the washing of regeneration, and renewing of the Holy Ghost. Which he shed on us abundantly through Jesus Christ our Saviour; that being justified by his grace, we should be made heirs according to the hope of eternal life.

信仰といっても、空虚な信仰や間違った信念を持っていても意味がありません。例えば、あるカルトの人たちは「救い」とはイエス様の十字架を信じること(でも自分の罪を認めて悔い改めるという意識はあまりない)+善い行いをすること(しかもノルマが決まっていたりする)+団体の活動のためにいくら献金することetc etc,,などなどいろいろ付加されていたりします。マタイの福音書にこうあります。

マタイ7:21-23 「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によっていろいろ奇跡を行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
Not every one that saith unto me, Lord, Lord, shall enter into the kingdom of heaven; but he that doeth the will of my Father which is in heaven. Many will say to me in that day, Lord, Lord, have we not prophesised in thy name? and in thy name have cast out devils? And in thy name done many wonderful works? And then will I profess unto them, I never knew you: depart from me, ye that work iniquity.

神様は、人間の驕り高ぶりを好みません。救いが、「善い行い」によるものであれば、「善い行い」をたくさんした人ほど、天国にいけることになります。ということは、たとえば寝たきりで動けない人とかは、チャンスが減るわけで、そういう人はどんなに求めても天国へ行けないなんていうことになっちゃいます。決してそうではありません。「救い」は、あくまでも自己の罪深さを心から反省し、イエス様に赦しと罪からの救済を乞うことによってなされます。聖書からの例をみてみましょう。

ルカの福音書、23章26−43節までを読んでみてください。これは、イエスが2人の犯罪人と共に、十字架にかけられているシーンです。

ルカ23:39-43 十字架にかけられていた犯罪人の1人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう1人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
And one of the malefactors which were hanged railed on him, saying, If thou be Christ, save thyself and us. But the other answering rebuked him, saying, Dost not thou fear God, seeing thou art in the same condemnation? And we indeed justly; for we receive the due reward of our deeds: but this man hath done nothing amiss. And he said unto Jesus, Lord, remember me when thou comest into thy kingdom. And Jesus said unto him, Verily I say unto thee, To day shalt thou be with me in paradise.

ここで、何が起きているかというと、要するに2人の罪人がイエス様の両側に同じように十字架にかけられていて、1人はイエス様をののしる一方、もう1人はイエス様が神であると信じ、また自分の行った罪とそれに対して受けている罰を認め、せめて天国にお帰りになるときに、私のことも覚えていてください、とお願いしています。その瞬間、この罪人はイエス様により救われました。そのため、「わたしと一緒に楽園にいる」と言ってもらえたわけです。その後、数分後には皆十字架の上で死んでしまうわけですから、この罪人は、「善い行い」をする時間もなければ、「洗礼」を受けるチャンスもありませんでした。でも「救われている」わけです。前に、「洗礼」を受けること=「救い」ではないということも述べましたが、この話しはそのよい例でもあります。

詩編145:8-12 主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し、あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ、あなたの主権の栄光を告げ、力強い御業について語りますように。その力強い御業と栄光を、主権の輝きを人の子らに示しますように。

The Lord is gracious, and full of compassion; slow to anger, and of great mercy. The Lord is good to all: and his tender mercies are over all his works. All thy works shall praise thee, O Lord; and thy saints shall bless thee. They shall speak of the glory of they kingdom, and talk of they power; to make known to the sons of men his mighty acts, and the glorious majesty of his kingdom.

神様は、恵み深い方なので、私たちがイエス・キリストを通して依り頼むことによって、その恩恵にあずかることができます。しかし、Faith, 信仰のない思いは無意味です。信仰なくしては、私たちは神様に喜んでいただくことはできないからです。

ヘブライ人への手紙 
11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、したがって見えるものは、目にみえているものからできたのではないことが分かるのです。
11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じなければならないからです。

Hebrews 
11:1 Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.
11:3 Through faith we understand that the worlds were framed by the word of God, so that things which are seen were not made of things which do appear.
11:6 But without faith it is impossible to please him: for he that cometh to God must believe that he is, and that he is a rewarder of them that diligently seek him.


天国へ行く道は、たった1つ、イエス・キリストの救いの奇跡を信仰をもって信じ、自分の罪の反省と、救済に依り頼むことです。けっして「どれだけ善いことをしたか競争」ではないので、よく覚えていてくださいね!!



2008年8月25日

ロデオ到来




Altusの町に、今度はロデオがやってきました。だいぶ前にダニーから、「8月の終わりにロデオが来るらしいよ」と聞いてはいたのですが、ロデオと言われて私が想像したものは、たまにコメディアンとかが乗っている、上下に動く機械仕掛けの牛のお尻みたいなものでした。しかし、ここは西部劇本場のオクラホマ。どうやら特設会場が町外れに設けられ、たくさんのロングホーンや馬、そしてカウボーイたちが来るらしいのでした。昨日は軍の感謝デーで、朝は基地内をロングホーンの牛さんたちと馬に乗ったカウボーイたちが練り歩き、夜には始まりました、ロデオ。今回もダニーが取材だったので、なるべくカメラワークがよく、他のお客様に邪魔にならない位置でのんびりと見ておりました。流石に本場は違いますね、ものすごい数のカウボーイ・カウガール達が登場。彼ら、リアルに職業カウボーイです。暴れ馬のお尻に乗り続けるロデオや、馬から飛び降りて小さいロングホーンを組み伏せる競争など迫力満点でした。将来立派なカウボーイズ&ガールズになるだろうと思われる、5歳くらいの少年少女も颯爽と馬を乗りこなしていましたよ。すごいなぁ。しかしやはりここはクリスチャンなバイブル・ベルト。ロデオも始まる前に、司会者が神様に参加者たちの安全とイベントの成功をお祈りしておりました。

馬にのる、というとやはり颯爽と駆け回る自由さ、みたいなものを想像します。私はあまり動物達とお友達になるタイプではないので、当然乗馬などできないのですが。人間って本当に「自由」というものを求めますよね。でも、本当の「自由=Freedom」って何なんでしょう?最近は「自由=Freedom=Rebellion=反抗」みたいな世の中になっていて、とても嫌ですね。こういうのは、ファッションや音楽に顕著に現れていますが、例えば女性のミニスカートの登場とかって、60年代に遡りますがロンドンのフェミニストのゲイのファッションデザイナーの女の人が、「これからは女性も昼間からセックスする時代」という題目の元につくったものらしいです。私はこれを聞いて、なんか下品で嫌だなあ、それ、とすごく思ったんですが。娼婦じゃないんだから。けれど、彼女にいわせれば、これは女性解放、みたいな。でもこういう動きが、今何を招いているかというと、アメリカのティーン14−19歳の女の子の4人に1人はSTDを持っているという現実。日本も他人事じゃないと思いますよ。このあいだ、インターネットでニュースを読んでいて、いまどきは小学生用の女の子の漫画がエロ漫画化しているという記事を読んで、かなり衝撃をうけましたね。私はドラえもんとかアサリちゃん、ときめきトゥナイト、ねこねこファンタジーなどその他様々な漫画を読んで育ちましたが、青年誌以上に異常な内容のエロ漫画が小学生少女用漫画雑誌に登場することは当時ありませんでしたよ(涙)。そのニュースに対する漫画作者のコメントに、「想像の世界なんだからいいじゃないですか」みたいなことが書いてあって、人間の性の汚い世界を知っている大人が読むなら「想像の世界」ですむのかもしれないけれど、まだ何もしらない純真な小学生が読んだら、それは「想像の世界」ではなく、彼らの「現実」になっていくことが分からないのか?と吐き気がするくらい嫌な気分になりましたね。作者本人よりも、その作品を雑誌に載せている編集者が考え直すべきだと思いますが。ロンドンにいた時も、どう見ても14歳位の子が妊娠してたり、もちろん結婚なんかしていないわけで。これって「自由」っていうんじゃなく、「自己破壊」ということに気がつかないのかな?と思います。音楽をやりながら、麻薬とかお酒の中毒になっている人たちもそうですよね。「自由=逃避」が「自己破壊」であることに喜びを感じている、というか。そういうのをいろいろロンドンで目の当たりにしてきたので、本当に考えちゃいます。

さて、では本当の自由に関する、ヒントはどこにあるのでしょうか?「自由」を歌ったよいHymnがあるので、ご紹介。メロディが見つからなかったのですが、歌詞が深いので一緒に考えてみましょう。

I’m Free
W.J.G. and Gloria Gaither & William J.Gaither

So long I had searched for life’s meaning
Enslaved by the world and my greed
Then the door of my prison was opened by love
For the ransom was paid, I was freed

(Repeat)
I’m free from the fear of tomorrow
I’m free from the guilt of the past
For I’ve treaded my shackles for a glorious song
I’m free! Praise the Lord! Free at last!

I’m free from the guilt that I carried
From the dull empty life I’m set free
For when I met Jesus, He made me complete
He forgot the foolish man I used to be

(Repeat)

(意訳)
長い間私は人生の意味について考えてきた
この世界と自分の欲望の奴隷になって
ところが私の檻の扉が愛によって開かれた
代償が払われて、私は自由の身になった

(繰り返し)
私は明日に対する恐怖から自由になった
過去の罪から自由になった
勝利の歌のために、私を締めつけていた枷を踏みつけて
私は自由になった!主を賛美しよう!とうとう自由になった!

ずっと背負ってきた罪責感から自由になった
退屈で空っぽの毎日から解放された
イエス様に出会った時、彼は私を完全にしてくださった
彼は以前の愚かな私を忘れ去ってくださった

この曲は、罪から、世界から解放された自由、神様の救済による自由を歌っています。神様を知らずに世の中を生きていると、人間はその欲望や、しがらみ、人間関係、仕事、財産、恐怖、空虚感、忙しさ、そういったものにがんじがらめになっています。つまり、自分で作り上げた檻の中に入って出られなくなっている状態です。1番目の歌詞の後半にある「愛」とは神様、イエス様の愛で、「代償が払われて」というのは彼の十字架の上で支払った、私たちの罪に対する代償です。

ヨハネ3:16-17 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life. For God sent not his Son into the world to condemn the world; but that the world through him might be saved.

では、イエス様の救いは、なぜ私たちを自由にしてくれるのでしょうか?自由とは何を指すのでしょうか。

ヨハネ8:31-32 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
Then said Jesus to those Jews which believed on him, If ye continue in my word, then are ye my disciples indeed; And ye shall know the truth, and the truth shall make you free.

ヨハネ8:34-36 「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」
Verily, verily, I say unto you, Whosoever committeth sin is the servant of sin. And the servant abideth not in the house for ever, but the Son abideth ever. If the Son therefore shall make you free, ye shall be free indeed.

ここでいう自由とは、自己に内在する罪からの解放です。これは、自分が罪により創り出した檻により、自ら罪の奴隷状態になっていたものを、「子」つまりイエス様がその罪を取り除くことによって、檻の扉を開けて私たちを解放してくれる、ということです。「罪の奴隷」とは、簡単な例でいえば、タバコを吸い始めたら、どんどん量も増えて、タバコを自由意志で吸っていたものが、いつのまにかなしではいられないようになったり。同じく、なしではいられない麻薬の禁断症状とか、体を自分でコントロールできなくなっている状態ですね。仕事中毒とか、不倫とか、援助交際とかも然り。

ガラテヤ信徒への手紙5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
Stand fast therefore in the liberty wherewith Christ hath made us free, and be not entangled again with the yoke of bondage.

さて、イエス様を信じて救われたあと、その罪からの自由の中でどのように生きるべきでしょうか。下記にでてくる「肉=Flesh」とは人間の「carnal=肉欲的、現世的」な性質を指し、「霊=Spirit」とは神様の与えて下さる聖霊の導きに従う生き方を指します。

ローマ 8:1-4 従って、今や、イエス・キリストに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
There is therefore now no condemnation to them which are in Christ Jesus, who walk not after the flesh, but after the Spirit. For the law of the Spirit of life in Christ Jesus hath made me free from the law of sin and death. For what the law could not do, in that it was weak through the flesh, God sending his own Son in the likeness of sinful flesh, and for sin, condemned sin in the flesh: That the righteousness of the law might be fulfilled in us, who walk not after the flesh, but after the Spirit.

「律法」とはモーセの十戒を指しますが、人間はこの現世に肉体を持って生きている限り、それらを全て守ることは不可能なので、イエス様を信じ、霊によって歩むようになると、その律法の要求を肉でではなく、霊によって満たすことができる、ということです。

ローマ 8:5-7 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。

For they that are after the flesh do mind the things of the flesh; but they that are after the Spirit the things of the Spirit. For to be carnally minded is death; but to be spiritually minded is life and peace. Because the carnal mind is enmity agains God: for it is not subject to the law of God, neither indeed can be.
 
ガラテヤ信徒への手紙5:16-17 霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望む所は霊に反し、霊の望むところは肉に反するからです。肉と霊が対立しあっているので、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
This I say then, Walk in the Spirit, and ye shall not fulfill the lust of the flesh. For the flesh lusteth against the Spirit, and the Spirit against the flesh: and these are contrary the one to the other: so that ye cannot do the things that ye would.


5:18−21 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もっていいますが、このようなことを行うものは、神の国を受け継ぐことはできません。
But if ye be led of the Spirit, ye are not under the law. Now the works of the flesh are manifest, which are these; Adultery, fornication, uncleanness, lasciviousness, idolatry, witchcraft, hatred, variance, emulations, wrath, strife, seditions, heresies, envyings, murders, drunkenness, revellings, and such like: of the which I tell you before, as I have also told you; in time past, that they which do such things shall not inherit the kingdom of God.

5:22-25 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, longsuffering, gentleness, goodness, faith, meekness, temperance: against such there is no law. And they that are Christ’s have crucified the flesh with the affections and lusts. If we live in the Spirit, let us also walk in the Spirit.

私たちの祖父母の時代には当たり前だったような「モラル」が、メディアやMTVを通してどんどん破壊されていっている現代で、自分の子供が育つころには「世の中の常識」はますますひどくなっているんだろうと思うと心が痛みます。つくづく、自分の子供たちには、「世の中のインモラルな常識」ではなく、「神様のモラルある常識」を学ばせて育てたいと思います。




2008年8月20日

ファイヤー・ファイターズ

先週末に、Altusで消防士さんの力比べ(?)大会がありました。アメリカ全土のいろいろな土地をまわって行われるイベントらしく、今回はたまたまAltusで開催されたようです。ニューヨークからアラスカまで、アメリカ全土から優れた消防士さんたちが集り、そのスピード、筋力、耐久力を競うレースでした。なぜこんなものを見に行ったかというと、ダニーの軍でのお仕事がブロードキャスターなので、Altusの空軍からエントリーしているエアマンの取材ということでした。やはり軍の人たちはトレーニングの仕方が違いますね。取材をした彼は、まったく足取り乱れることなく、素晴らしいスピードでゴールしていました。このレースは相当きついようで、途中で酸素不足に陥ってリタイアしている人もいましたよ。なにしろ、消防服、ガスマスクをフル装備で(重たそう+暑いだろうに+呼吸が大変)数キロある折り畳まれたホースを肩に担いでまず5階建て分の階段をダッシュして上ります。頂上についたら、20キロの重りを地上から5階まで引き上げ、ダッシュして下ります。その後、さらに重たい重りをハンマーでたたいて1mほど動かした後、25m障害物をよけながら走り、消火用ホースを引っ張りながら25m走ってもどり、的に向かって放水。的にあたったら、最後に80キロの人間ダミーを引きずりながらまた25m後ろ向きで走って、ゴール。これ皆2分くらいでクリアしちゃうんですよ。さすが、プロ。昔ウエイト・リフティングをやっていて力があると自分では思っているダニー君も、「これはできない!人間業じゃないな」とひたすら感服しておりましたよ。こんなことを火事の現場でやっているんだから、この人たちは相当な精神力+体力ですね。ひたすら頭が下がります。女の消防士さんもいて、ちゃんとゴールしてました。なんてパワーなんでしょう。


さて、そんなわけで、今日はレスキュー絡みの歌をご紹介。

メロディはCyber Hymnal からどうぞ。曲の書かれたいきさつも紹介されているので、是非読んでみてください。

http://www.cyberhymnal.org/htm/r/e/rescuetp.htm

Rescue the Perishing
By Fanny J. Crosby & William H. Doane

Rescue the perishing, care for the dying
Snatch them in pity from sin and the grave
Weep o'er the erring one, Lift up the fallen
Tell them of Jesus the mighty to save

(Chorus)
Rescue the perishing, care for the dying
Jesus is merciful, Jesus will save.

Tho' they are slighting Him, still He is waiting
Waiting the penitent child to receive
Plead with them earnestly, plead with them gently
He will forgive if they only believe
(Chorus)

Down in the human heart, crushed by the tempter
Feelings lie buried that grace can restore
Touched by a loving heart, wakened by kindness
Chords that are broken will vibrate once more
(Chorus)

Rescue the perishing, duty demands it
Strength for my labor the Lord will provide
Back to the narrow way, Patiently win them
Tell the poor wand'rer a Savior has died
(Chorus)



(意訳)
堕落している人たちを助けよう、死んでゆく人たちを。
憐れみをもって、罪と墓から救い出そう
不義の過ちを犯している者のために泣こう、落ちて行く者を引き上げよう
彼らに大いなる方、イエス様の御救いを伝えよう

(繰り返し)
堕落している人たちを助けよう、死んでゆく人たちを。
イエス様は憐れみ深い、イエス様は救ってくれる

彼らが無視していても、イエス様は待っていてくださっている。
悔悟した子供たちを迎え入れるために待っている
真剣に、そして優しく説き伏せている
彼らが信じれば、イエス様は赦してくださる

人間のハートの奥深く、怒気で壊れてしまったもの
深く墓に埋めた感情も、神様の思慮が治してくださる
愛に溢れたハートが心に触れ、その優しさに起こされる
一度切れてしまった弦も再びその音を取り戻す

堕落している人たちを助けよう、それは与えられた義務
働く強さはイエス様が与えてくださる
狭い道にもどり、根気よく彼らを説き伏せる
悲しくもさ迷う人たちに、救世主が死んでくれた話を伝えよう


この曲は、Soul Winningの曲ですね。ソウル・ウィニングとは、イエス様の救済の福音を知らずに、地獄に何の疑問も持たずに向かっている人たちに福音を述べ伝え、そのSoul(魂)を神様のもと(天国)へWinする(勝ち取る)ことです。

私は、横田のバプテスト教会にくるまでは、このようなはっきりとした福音を誰も伝えてくれなかったので、ソウル・ウィニングなどという言葉は聞いたことありませんでした。「救われている」ということと「クリスチャンである」と自称していることは、ちょっと違う二つのことです。残念ながら、世界中に自称「クリスチャン」でありながら、「救われていない」=「イエス様の救済の福音をはっきり理解していない」人がたくさんいます。なぜでしょうか?

まず、私の経験から言うと、最初に私が自称「クリスチャン」になった英国国教会系・今どき風教会では、「救い」に最も大切である、「イエス様との個人的な関係を樹立すること」よりも、「Sinner's prayer(罪人の祈りとでも訳すんでしょうか・・・)を言って、イエス様を信じ、洗礼を受けること」が救いである、というような曖昧な認識でした。つまり、心のそこから、というよりも、形式的なものが上回ってしまい、「なんとなくクリスチャン」になってしまうわけですね。ちなみに、洗礼を受けることが、私たちを「救う」のではありません。救いはあくまでも、「自分が罪人であると心から認識し、その罪をイエス様が十字架で死に、その血をもって贖い、私たちから取り去ってくださったと信じ、心からイエス様に赦しを乞い、神様との関係をとりなしてくださいとお願いする」ことによってなされます。

洗礼とは、あくまでもイエス様を信じ、救われた人がその象徴として、聖書の御言葉に従う第一歩として受けるものです。その理由は:

1. イエス様が使徒たちに命令したことである
マタイ28:19
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい

Go ye therefore, and teach all nations, baptizing them in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost.

2.イエス様自身も洗礼を受けている
マタイ3:13
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。

Then cometh Jesus from Galilee to Jordan unto John, to be baptized of him.

3. 信じて救われた者が、神様の御言葉に従順に従う第一歩である
使徒言行録 2:41
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受けた

Then they that gladly received his word were baptized.

さて、洗礼は、水の中に腰から下だけ浸かって立っている状態から、仰向けに牧師によって全身完全に水に浸けられ、再び起き上がることで完了します。これは、イエス様が十字架で死に、埋葬され、そして生き返ったことを象徴します。ですので、よくイタリア映画とかにあるような、「聖水」と呼ばれるものをおでこにチョッチョッとつける、というような「洗礼」は聖書に反します。聖書に出てくる洗礼のシーンの例を見てみましょう。

使徒言行録8:38
フィリポと宦官は2人とも水の中に入っていき、フィリポは宦官に洗礼を授けた。

And they went down both into the water, both Philip and the eunuch; and he baptized him.

マルコの福音書1:9-10
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ・・

And it came to pass in those days, that Jesus came from Nazareth of Galilee, and was baptized of John in Jordan. And straightway coming up out of the water…

どちらもしっかりと水に浸かっています。また、産まれたての赤ちゃんのおでこに聖水をふって「洗礼」したりするのも、聖書には一切例のないことなので、神様の御言葉と一致しないことに注意してくださいね!

さて、話しをSoul Winning に戻しましょう。救われているクリスチャンにとって、救われていない人たちに福音を述べ伝えることは聖書に書かれている命令のうちの1つです。以下の御言葉にあるとおりです。

マルコ16:15 
イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」
Go ye into all the world, and preach the gospel to every creature.

マタイ28:19-20 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
Go ye therefore, and teach all nations, baptizing them in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost: Teaching them to observe all things whatsoever I have commanded you: and lo, I am with you always, even unto the end of the world.

詩編126:6 種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は 束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
He that goeth forth and weepeth, bearing precious seed, shall doubtless come again with rejoicing, bringing his sheaves with him.

箴言 11:30 神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。
The fruit of the righteous is a tree of life; and he that winneth soul is wise.

救われているクリスチャンの皆さん、まだイエス様の救いを知らない人たちにきちんと説明ができるように聖書を勉強しましょう!

2テモテ 2:15 あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。
Study to shew thyself approved unto God, a workman that needeth not to be ashamed, rightly dividing the word of truth.

世の中にはたくさん嘘の福音を教える宗教があります。そういう人たちに出会った時に、きちんと聖書から真実だけを伝えられるようになりたいですね☆

ヨハネの手紙1 4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出てきているからです。
Beloved, believe not every spirit, but try the spirit whether they are of God: because many false prophets are gone out into the world.