

田舎でのんびりと主婦をしているもので、たっぷりある時間を利用して部屋のインテリアを飾る絵などを描いています。(って一応イラストレーターが仕事のはずなんですが。)試作として、Salvation Armyの店で買った古い木製の壁掛けの上に、大好きなHymnとそれに合った聖句をあしらった絵をペイントしてみました。ただいま第2作目を製作中。家の壁にほとんどなにも飾っていないので、せっせと絵を描いては飾りたいと思います。かわいいアメリカン・ハウスにしたいし。アメリカの奥様たちは、デコレーションとか大好きで、しかも皆けっこうセンスがいい。ロンドンのデザインの学生達なんかよりも、ずっとセンスのいい品を取りそろえ、しかも自分たちで作っちゃったりするんですね。そんなわけで、うちもあんまり壁が空っぽだと「あら、殺風景な家ね。」という印象になってしまうので、努力したいとおもいます。
ついでにもう一つ、家の名札もつくってみました。一応、木彫りです。色をどうしようかと考えたんですが、まあ、折角なのでアメリカらしくPatriot的な色あいに。というか、さりげに慶應カラーなんですが。
この名札の下にあるJOSH 24:15というのは、旧約聖書のヨシュア記、第24章15節を指します。
「わたしとわたしの家は主に仕えます。As for me and my house, we will serve the LORD. という部分です。」よく、クリスチャンのお家に掲げてある言葉なんですよ。ヨシュア記は、モーセが死んだ後、イスラエルの民を今度はヨシュアが神様の御言葉に従って導いていくお話なのですが、この24:15の部分では、ヨシュアが、すぐに偶像崇拝に陥りがちな民に、「君たちはどの神を拝むつもりかちゃんと選びなさい」と悟し、心を決めさせている所です。もちろん、本物の神様は1人しかいないのですが、旧約聖書の時代から、人々はいろいろな神の像やら神殿やらを造り出してはそれら偶像を拝んでいたんですね。イスラエルの民は、唯一本当の天の神様に導かれていたのですが、目に見えないものだから、他国の人々の偶像を彼らも崇拝しはじめ、それを見かねた神様は、彼らを敵の手に渡したり、罰を与えたりするわけです。それでも、彼らが反省するとまた助けだして、とそんなくり返しが見られます。
ヨシュア記 24:14-15 「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主につかえます。」
Now therefore fear the LORD, and serve him in sincerity and in truth: and put away the gods which your fathers served on the other side of the flood, and in Egypt; and serve ye the LORD. And if it seem evil unto you to serve the LORD, choose you this day whom ye will serve; whether the gods which your fathers served that were on the other side of the flood, or the gods of the Amorites, in whose land ye dwell: but as for me and my house, we will serve the LORD.
ヨシュア 24:16-18 民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、私たちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、私たちの行く先々で、また私たちが通ってきた全ての民の中で、私たちを守ってくださった方です。主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民を私たちのために追い払ってくださいました。私たちも主に仕えます。この方こそ、私たちの神です。」
And the people answered and said, God forbid that we should forsake the LORD, to serve other gods; for the LORD our God, he it is that brought us up and our fathers out of the land of Egypt, from the house of bondage, and which did those great signs in our sight, and preserved us in all the way wherein we went, and among all the people through whom we passed: and the LORD drave out from before us all the people, even the Amorites which dwelt in the land: therefore will we also serve the LORD; for he is our God.
19-20 ヨシュアはしかし、民に言った。「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる」
And Joshua said unto the people, Ye cannot serve the LORD: for he is an holy God; he is a jealous God; he will not forgive your transgressions nor your sins. If ye forsake the LORD, and serve strange gods, the he will turn and do you hurt, and consume you, after that he hath done you good.
21-23 民がヨシュアに、「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」というと、ヨシュアは民に言った。「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなた達自身である。」彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
And the people said unto Joshua, Nay; but we will serve the LORD. And Joshua said unto the people, Ye are witnesses against yourselves that ye have chosen you the LORD, to serve him. And they said, We are witnesses. Now therefore put away, said he, the strange gods which are among you, and incline your heart unto the LORD God of Israel.
というわけで、ここでイスラエルの民は本当の神様を信じることに決めるのですが、また時がたって列王記上(1Kings)の時代になると、ふたたびイスラエルの王たちは神様から離れて、偶像であるバアルというものを拝んでいます。そして、バアルを崇める様々な預言者達も現れ、魔術などを用い人々を惑わしているのですが、主の預言者であるエリヤ(Elijah)が本物の神様はバアルではないということを実証するために、このバアルの預言者達と対決します。
列王記上18:21 エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民は一言も答えなかった。エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ1人、主の預言者として残った。バアルの預言者は450人もいる。我々に2頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに1頭の雄牛を選ばせて、割いて薪の上にのせ、火をつけずにおかせなさい。私も1頭の雄牛を同じようにして、薪の上にのせ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名をよぶことにしよう。火を持って答える神こそ神であるはずだ。」
ということで、まずバアルを崇める預言者たちは必死にバアルに祈るのですが、当然なにも起きません。また、彼らはその習わしに従って、大声をあげたり、剣や槍で体を傷つけて血を流し、狂ったように叫び続け、、となんだか物騒なことになります。
詩編115:2-8 なぜ国々は言うのか「彼らの神はどこにいる」と。私たちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる。国々の偶像は金銀に過ぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声をだせない。偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる。
Wherefore should the heathen say, Where is now their God? But our God is in the heavens: he hath done whatsoever he hath pleased. Their idols are silver and gold, the work of men's hands. They have mouths, but they speak not: eyes have they, but they see not: They have ears, but they hear not: noses have they, but they smell not: They have hands, but they handle not: feet have they, but they walk not: neither speak they through their throat. They that make them are like unto them; so is every one that trusteth in them.
と、このように偶像とは人間が造りだしたものなので、けっきょくバアルなんていう神様は存在しないので、いくら呼んでも出てこないわけです。一方エリヤはそんな様子を見てから、主に祈りをささげると、天から主の火が下ってきて、民衆は皆主のみが神である、と立ち返るというお話です。
この箇所を読むと、いつも私は世界不思議発見やNHKスペシャルで見たアフリカの原住民とかが体に鉄棒とか突き刺しながら、トランス状態に陥って神と交信する、なんていうシーンを思い出すんですが、ああいうシャーマニズムって、どうみても悪魔にとりつかれているようにしか見えないんですが・・・。なんか怖いじゃないですか、皆目とか血走ってるし、泡ふいて血流してるし。このシーンって、すごくこのバアルの預言者たちがやっていたことと重なって見えます。
まあ、それはさておき、ここでの重要ポイントは、「選択」することです。私たちは、大きなことから小さなことまで、毎日いろいろな「選択」に直面します。朝ご飯をパンにするか、シリアルにするか、から、大学をどこに行くか、誰と結婚するか、車・家を買うかどうするか・・・等々。ここでは、「自分はどの神様に仕えるか」の選択です。これって、1番大事な事なんですが、現代だとどこの国にいっても「なんとなくクリスチャン」や「なんとなく仏教徒」「なんとなくムスリム」=「別にどれでもいいんだけどさ、うち、祖父母がOOだからー」という人がすごく多いです。ちなみに、そういう人はその宗教の信仰の内容すら知らない人が大半です。私自身、普通に寺に家代々のお墓があって(仏教)、正月はおみくじひいてお祈りして(神道)、なんとなく先祖の霊が守ってくれているらしいと信じ(ご先祖崇拝)、神様ってどこにいるんだろうと天使の飛び交う天国を想像し(キリスト教)、そんなことをしながらも、最終的には深く神様について考えない、というような感じで育ちました。神様の存在を、自分が困った時とかしか求めないし、誰に祈っているのかきちんと考えたこともありませんでしたね。しかし、どの神様に祈っているのか、というのはものすごく大切なことです。そして、その神様は本物であるのか、というのを知っていることは必要不可欠です。だって、自分が病気になったときに、偽物のお医者さんにはかかりたくないですよね。それと一緒で、自分は何を信じているのか、確認することって大事です。
マルコの福音書 8:36-37 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
For what shall it profit a man, if he shall gain the whole world, and lose his own soul? Or what shall a man give in exchange for his soul?
この世の価値観は、財産や所有物をいかに増やしお金持ちになるか、ということにかなり傾いています。けれど、聖書はこの世の後の話しをしています。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」私たちの魂は、肉体が死んだ後必ず天国か地獄かに行きます。それは、永遠の命を手にするか、永遠に燃える火の中で苦しみ続けるかの選択です。しつこいようですが、天国にいく道はたったひとつです。本物の神様を信じ、イエス・キリストを通して主に罪の赦しを乞い、天国への道へ進ませていただくことだけです。聖書にはっきりと記されたこの真実は、とても単純なことのようで、多くの人が「選択」を誤るんですね。聖書にある主はこんな神様です。
イザヤ書45:18-19
神である方、天を創造し、地を形作り造り上げて、固く据えられた方、混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形作られた方、主はこう言われる。わたしが主、ほかにはいない。わたしは隠れた所で、地の闇の所で語ったことはない。ヤコブの子孫に向かって混とんの中にわたしを求めよ、と言ったことはない。わたしは主、正義を語り、公平を告知する者。
For thus saith the LORD that created the heavens; God himself that formed the earth and made it; he hath established it he created it not in vain, he formed it to be inhabited: I am the LORD; and there is none else. I have not spoken in secret, in a dark place of the earth: I said not unto the seed of Jacob, Seek ye me in vain: I the LORD speak righteousness, I declare things that are right.
45:20-21 国々から逃れてきた者は集まって、共に近づいてくるがよい。偶像が木にすぎないことも知らずに担ぎ、救う力の無い神に祈る者。意見を交わし、それを述べ、示せ。だれがこのことを昔から知らせ、以前から述べていたかを。それは主である私ではないか。私をおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない。
Assemble yourselves and come; draw near together, ye that are escaped or the nations: they have no knowledge that set up the wood of their graven image, and pray unto a god that cannot save. Tell ye, and bring them near; yea, let them take counsel together: who hath declared this from ancient time? Who hath told it from that time? Have not I the LORD? And there is no God else beside me; a just God and a Saviour; there is none beside me.
私の信じる神様、主は唯一イエス・キリストを通して人間に魂の「救い」を与えて下さる神様です。今、あなたが信じている神様は、死後にあなたの魂を天国へ導いてくれると約束してくれていますか?それも、自分たちの罪を肩代わりしてくれて、あくまでも贈り物としてその偉大な業を人間たちに見せてくれたでしょうか?今、自分が信じている神様が誰なのか、一度きちんと調べてみてください。そして魂の救済を求めるならば、あなたもいまが「選択」する時です!